いかがでしたでしょうか?哲学について余り勉強した経験が無い人向けに要約を書かせていただきました。わかりやすかったら幸いです。
では、ここからは、さらに細かい内容を掘り下げながら、他の色々な要素を結びつけて解説していきたいと思います。よろしくお願いします。
1.イデアから形相へ
1-1.哲学の誕生
元々ギリシアは地中海を中心とした島と半島が数多くあった地域であり、様々な民族が交流しながら暮らしていました。その民族同士における最大の違いは、彼らが先祖代々受け継いできた神話でした。
みなさんに注目していただきたいのは、何故神話があるのか、と言う点です。理由は様々あると思いますが、その民族の社会を旨くまとめていくための倫理観や決め事に正統性を持たせるため、という大きな側面があります。
神や超常現象は本当に存在するのか、という疑問は今回は置いておきますが、哲学において「神の存在証明」は大きなテーマとして扱われ、オカルトではありません。科学技術が発達した現在でも、神という存在についてより深い議論がされています。
それらの神話は別物ですから当然お互いに矛盾した部分だらけでした。しかし、その神話同士の中で似たような内容もまたいくつも見つかりました。それらをまとめていく流れが起こり、その過程で哲学:Philosophy、は誕生しました。
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そして、最初の哲学者と呼ばれたのがミレトスのタレスでした。
1-2.何を元にして、この世界は作られたのか
タレスが暮らしていたミレトスは、現在のトルコ西部にあり、ユーラシア大陸においてエーゲ海に面していました。なので、ミレトスがある半島は当時小アジア(アジアの大陸の中の小さな半島)と呼ばれていました。そこでタレスは、様々な神話を聞き回りながら、実際に自分の目で様々な事を観察して、このような主張をしました。
「万物の根源は水である」
どの神話も、神が世界を作った事になっている。では、神は何を元にしてこの世界を作ったのか?タレスはこの事に注目し、自分なりの結論を出しました。
この疑問こそが、全ての哲学のはじまりであり、あらゆる学問の始まりでもあるとも言えます。
万物の根源の探究、という最古の哲学の探究テーマに基づき、ミレトスでは様々な哲学者がタレスに続きました。特に、「万物の根源は『無限なるもの』である」と主張したタレスの弟子のアナクシマンドロス、更にその弟子で「万物の根源の根源は空気である」と主張したアナクシメネスの三人を中心にした哲学をミレトス学派(イオニア学派)哲学といいます。
特にミレトス学派の特徴として、目の前のものをよく観察し、そこから頭で考える、が挙げられます。現在で言うと小学生の理科に近いかも知れません。
もしかしたら、何故こんな当たり前のことを、と思ったかも知れません。目の前で起こったことを前提に考えるのは当たり前のことじゃないか、と。
しかし、この事に疑問を投げかけた哲学者が現れます。
1-3.具体的な『もの』から抽象的な『観念』へ
タレスが投げかけた疑問から始まった哲学は、様々に分岐していきました。自然とは何か?という疑問は自然学に、では結局神とはどんな存在なのか?という疑問は神学に。そして、数とは何なのか?と言う疑問から、数学が生まれました(もっとも、『~学』という言葉を作ったのは後の時代のアリストテレスなのですが)
この数学に関連して、このような主張をする人物が現れました。
「万物は数によって説明される」
この人物がミレトスのすぐ西に位置するサモス島のピュタゴラスです。
ピュタゴラスは哲学を学びながら、数について思索を巡らせました。数々の定理や法則を発見しながら、それを元に更に考えた結果、万物を説明出来るのは具体的な「もの」ではなく、抽象的な「数」なのではないか、と言う結論を出したのです。
「数」は人の頭の中で考え出された抽象的な概念です。この概念の事を観念といいます。数学者として有名なピュタゴラスですが、哲学史的には、「観念」に最初期に注目した人物、でもあります。
1-4.なぜ『もの』は運動するのか
さて、万物の根源について、このような主張が出てきました。
「万物は流転する」
この主張をしたのがヘラクレイトスです。彼は小アジアで生まれたのですが、何処を拠点にして活躍したのかは分かっていません。彼は、ミレトス学派哲学を注意深く学びながら、一つの疑問に行き着きました。それは、「万物の根源から生じた物体は、なぜ運動しているのか」でした。
ヘラクレイトスは、自然界にあるものは全て何らかの運動をしている事を自身の観察で読み取りました。そして、その運動をしている原因は、万物の根源といわれるものの中にあるのではないか、そのように考えました。そして、こう続けます。
「つまり、万物の根源自体が絶えず運動しているから、あらゆるものは動いているのだ。だからこの万物の根源は、例えるなら火のようなものだろう」
そのように考察し、さらに、
「(万物の根源は)あるとともに、あらぬのだ」
と主張しました。火のような物だから、付いたり消えたりしている、という事でしょう。
しかし、これに強い違和感を持つ人物が現れました。
1-5.感覚から理性へ
その人物とは、小アジアからペロポネソス半島(現在のギリシャ)を跨いだ先のエレア(現在の南イタリア)で活躍した、パルメニデスです。
「あるとともにあらぬ」という表現に強い違和感を覚えた彼は、何故そのような結論になったのか考察しました。そして、そもそも「ある」とはどういうことなのかを考えました。その結果、今までの主張を覆すような主張をしました。
「私達が観察している『もの』は、本当に『そのもの』の姿なのか?」
パルメニデスは、人間は見間違いや聞き間違いをすることを取り上げてそのように考えました。つまり、人間の感覚を疑ったのです。目で見た情報、耳で聞いた情報から導き出される事柄は、本当に正しいと言えるのか。ミレトス学派から始まった哲学の根幹を揺るがす主張でした。
そして、パルメニデスは感覚に頼らず、自分の頭の中だけで、則ち、人間の理性だけで考察を重ねました。そして、「ある」について、次のような結論をいくつかだしました。
「あるものはひとつである」、「あるものは分割できない」、「あるものは静止している」、「あるものは時間に関係なくある」、「あるものは不生不滅である」、「あるものにより世界は満たされている」・・・これらの事柄を、理性を使って論理的に導き出しました。主に背理法:『あるもの』は一つではなく多であると仮定する。すると○○という事実と矛盾する。よって『あるもの』は一つ、によって証明しました。
そして、パルメニデスは以下のような結論を出しました。
「私達があると思い込んでいる『もの』は本当の姿では無く、実際にはその『もの』の背後に『本当にあるもの』が『ある』」
彼の言う「本当に存在するもの」は、人間が認識する事が出来ない「もの」だと主張します。それゆえに「あるものは、ある。ないものは、ない」と、パルメニデスは続けます。
1-6.そして、プラトンとアリストテレスへ
パルメニデスは哲学史上初めて、何かを考える際に感覚を一切排除し、人間の理性だけで考察する、という方法をとりました。この人間の理性のみを頼りに主張を展開する事を、理性主義といい、理性主義に基づいた議論を観念論といいます。パルメニデスは、観念論の先駆者だったのです。また、パルメニデスが行ってきた、「ある:存在する」についての議論を、存在論:Ontologyといい、以後の哲学の中心テーマになっていきます。
ちなみに、ミレトス学派のような、現実にある者から出発して、考察を巡らせて結論を出すやり方を、便宜上現実主義(実験主義とも)といい、現実主義に基づいた議論を経験論といいます。
ちなみにですが、この理性主義と現実主義はこれ以降、時代を変え地域を変え哲学の領域で何度もぶつかり、その結果哲学が発展する、という流れをいくつも作ることに成ります。
さて、大分遠回りをしましたが、今回の名言の主役であるアリストテレスと、師匠のプラトンについて掘り下げます。
1-6-1.観念論の集大成だったイデア論
なんとなく察した方もいらっしゃると思うのですが、プラトンのイデア論はパルメニデスから影響を受けています。プラトンは師であるソクラテスが自害した後、アテナイから離れ地中海を巡る流浪の旅をしました。その中でパルメニデスから始まるエレア学派(イタリア学派とも)哲学とピュタゴラスの弟子達が残した教えを学びました。
ピュタゴラスは、自らの考えを広める際にユニークな方法をとりました。それは、その教えを教義として、ピュタゴラス教団を立ち上げて宗教として広めたのです(もっともその内情は秘密主義が色濃く、信者は限られていたそうですが)。その際にピュタゴラスはある宗教を参考にしました。それは、当時のペルシア帝国(ミレトスの東側にあった広大な帝国、現在のイランの原型にあたる)で広まっていたゾロアスター教です。「死後、善き魂は天国へ、悪い魂は地獄へ」という二元論的世界観をプラトンは参考にして、イデア界と現象界(私達が暮らす世界)があるという発想に繋げました。イデア論は、当時における観念論的な発想の集大成だったのです。
1-6-2.調停者は多方面から攻撃される
アリストテレスはトラキア地方(小アジアから南西に位置。現在はブルガリア、ギリシャ、トルコに三分割されている)出身で、ミレトスに比較的近かった為、ミレトス学派哲学から影響を受けていました。彼がプラトンのエレア学派の流れを汲むイデア論に違和感を持ったのは、こういったことも影響しています。
よく哲学史を解説する中で、「プラトンは理性(理想)主義者、アリストテレスは現実主義者」という対比を挙げる方がいらっしゃいます。そのように捉えても間違ってはいないのですが、正確にはアリストテレスはミレトス派とエレア派の考え方を調停した、と見るのが正しいです。調停の結果多くの学問が生まれ、アリストテレスは万学の祖となった、という流れです。
このサイトでもプラトン=理想、アリストテレス=現実、といった見方を今後多用すると思いますが、その点は何卒ご了承下さい。
しかし、先ほど理想主義と現実主義は何度も衝突を繰り返す、という哲学史の流れを説明しましたが、二つの思想を調停した人物の理論はあらゆる方向から攻撃される、という事も哲学史の中にはあります。
アリストテレスが主張した「目的論的自然観」は、なんとこれ以降約2000年間、あらゆる哲学者達から批判されることになります。それでも否定され切れなかったのですが、最終的にドイツの哲学者イマヌエル・カントによりとどめを刺されます。このカントから始まる哲学をドイツ観念論といい、ここから近代哲学が始まることになります。
その2000年の間、ヨーロッパではそもそも哲学などやっていられないような危機的な状況が続いた期間も短くないのですが。
また、ドイツ観念論の絶頂と言われるのがゲオルグ・ヘーゲルという人物なのですが、調停者的な側面があった彼の理論も多方面から攻撃を受け、ヘーゲルの死後、その一派はバラバラになってしまいました。その中からカール・マルクスやセーレン・キェルケゴール、フリードリヒ・ニーチェが出てくることになります。
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