第一回 アリストテレス➀幸福

4.人生における幸福、5.本当の幸福のために

4,5-1.徳のある人間にならないと幸せになれない?

先ほどアリストテレスは、自身の徳を知り、徳を社会で実践することが幸福だ、このように主張しました。徳についてアリストテレスは、以下のようなことを言っています。

徳は技術に似た部分がある。例えば竪琴を初めて触った者は弾き方すらわからずに騒音を奏でるだけである。弾いている本人も弾くこと自体が困難であり、演奏を愉しいとは思わない。だが、何度も練習する事で弾き方を覚えることで、容易に美しい演奏を奏でることが出来るようになり、本人も竪琴を演奏することに喜びを見出すようになる。

徳も同じである子供は情念を抑えて理性的に行動すること自体が難しく、理性的に行動することを嫌がる。しかし、それでも理性的な行動を繰り返し習慣化する事で、徳を発揮する事が当たり前になり、徳のある行為をすること自体に喜びを見出すようになるのである。

以上のように、徳のある人間になるには教育が不可欠であると主張しています。しかし、皆さんの中にはこのように思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「何を持って幸せと感じるのかは、人それぞれじゃないの?」

もっともなご意見です。そして、その疑問は、先ほどのカントが活躍した辺りの少し後の時代において大きな議論が起こりました。

4,5-2.国民国家の基本倫理

時代は19世紀のイギリスです。当時のイギリスは産業革命、ピューリタン革命における政変、資本主義の台頭、などめまぐるしい変化を経験しました。国民国家となったイギリスでは資本主義の元、産業革命により出来上がった工場に農村部で食えなくなった多くの人が集められ、工場の部品のような扱いを受けて生活を送っていました。

このまま資本主義の世の中で生きる事が幸せなことなのか。まさに現代の我々が抱いているような不安を抱いていました。

当時のヨーロッパ全体の価値観として、「一人一人の幸福ではなく、社会全体が幸福になる事を目指すべきだ」というものがありました。これはフランス革命の影響で、独立した市民一人一人が社会全体の幸福に奉仕すれば、結果として自分自身も幸福になる、という理屈です。今から見ると全体主義的な考え方ですが、この考えに基づき、フランス人は自らの王を打倒してしまいました。

この価値観に基づいて考えると、各人が自分の利益を求めて行動したら社会の秩序が乱れるため、個人の利益追求は悪と見なされました。

4,5-3.経済学の誕生

しかし、以下のような主張を行った人物が現れました。

社会の秩序が保たれるのは、人々が持つ社会的感情である「共感」のおかげである。共感を得る事により人は快楽を得、逆に共感を得られないと悲しむ。故に人の心の中には人から共感されるために行動しようとする判断基準である「中立な観察者」が存在し、それに従って行動している。これは人間が持っている欲望や情念よりも強い感情であり、自分だけ利益を得ようとする行為を抑制する。もしその行為を働いた場合、そのことをいつまでも心の中で指摘し続け、その人が平穏に過ごすことを許さない。

人間にとっての幸福とは、心の平穏と楽しみの中にある。心の平穏が保たれた人間は、どのような事にも楽しみを見出す余裕があるのである。そう言った人間になる為に必要なこと、それは健康な身体を持ち、借金に悩まされておらず、心にやましさが無い事である。それ以上の条件は、全て過剰なものである。

こう主張した人物こそ、経済学の父として有名なアダム・スミスである。スミスは例え自分の利益や快楽のために行動したとしても、人間には中立の観察者による良心の呵責が働いている為、社会の秩序を乱すことにはならない」と主張し、個人の利益の追求、則ち個人主義を肯定し、それを支えるための理論として始まった経済学を立ち上げることになります。

このスミスが書いた『道徳感情論』の、借金に悩まされていない、と言う点についてさらに言及した補足にあたるもの『国富論』です。

4,5-4.幸福は、快楽だ

この当時の社会倫理アダム・スミスの個人主義調停を試みようとした人物がジェレミー・ベンサムです。彼は、『最大多数の最大幸福』という概念を打ち出しました。

個人主義という発想に惹かれ、また、社会的なあらゆる事を数量化して考察する経済学を参考にしたベンサムは、「人間が感じる快楽も、数値化することが出来るのではないか」と考えました。

各人の快楽を数値化し、その数値が最大になるようになる事は何なのかを明らかにし、それを社会の倫理規範に据えること。このことにより平和な社会が実現するのではないか。このように考えました。ベンサムのこうした考え方を、「功利主義」といいます。

しかし、このベンサムの考え方には欠陥がありました。それは人間が感じる快楽を全て同質なものと見なしている事であり、その点を世間から厳しく批判され、しまいには豚に相応しい学説とまで非難されました。一人一人の幸福や快楽を比較する事などできない、ベンサムの功利主義はそう言った批判を受けたのです。ベンサムの功利主義は、不完全な点を孕んでいました。

4,5-5.「個性」の尊重こそが社会全体の幸せに繋がる

そんな中で現れたのが、ベンサムの教え子であったジョン・スチュアート・ミルです。

ミルは、一人一人の幸福や快楽を比較することは出来ない事に同意し、その理由を人は平等でも同質でもないからだと指摘しました。快楽を数値化する事及びその合計量を最大にするのを倫理的規範にする事には無理がある、と主張し、ベンサムの個人主義は原子論的人間観だと批判しました。

その点を踏まえ、自身が打ち出した倫理学である『功利主義論』の中で、快楽を高級な快楽と低級な快楽に区別し、感覚的な快楽よりも知的な快楽のほうが如何に価値があるのかを論じました。その中で、このような名言が生まれました。

満足した豚であるよりも、不満足な愚か者である方が良く、満足な愚か者であるよりも、不満足なソクラテスであるほうがよい。

この言葉は、ベンサムの功利主義が「豚の道徳」と蔑まれた事に対する意趣返しでもありました。そして、全ての人が「より望ましい幸福」を追及するためには一人一人の個性に注目しなければならないと付け加え、より高度な快楽を一人一人が目指す事、そのために一人一人の個性を尊重する事こそ、社会的規範にふさわしいと主張しました。

この快楽の質に注目した功利主義の考え方を「質的功利主義」、大してベンサムの快楽を数値化してその量に注目する考え方を「量的功利主義」といいます。

4,5-6.人間社会の本質を見抜いていたアリストテレス

より望ましい幸福を目指す事、より高度な快楽に喜びを見いだせる人間になる事、これこそ正にアリストテレス達が主張した徳のある人間になる事のことを言っています。

実は、ミルは父親から厳しい英才教育を受けたのですが、その際に古代ギリシア語をマスターし、アリストテレス達が残した書物を子供の頃から読み込んでいました。「質的功利主義」は、そんなミルが資本主義が台頭してくる世の中に対して出した一つの答えでした。

また、アリストテレスはこんな事も言っています。

「大衆は幸福を快楽のことだと考え「享楽の生活」を愛好する者が多い。他方、「政治的生活」を目指す者もおり、その者は幸福を名誉のことだと思っている。第三に、真理の探究、すなわち「観想活動の生」こそが幸福であると考える人々が存在する」

アリストテレスもほとんどの人は快楽こそが幸福だと考えていることは分かっていました。2000年以上の年月が経っても、そして今現在に至るまで、「幸福とは快楽の事だと考える」人が大多数であり、「真理の探究」といった高尚な快楽を求める人はごく少数だという事変わらない事実なのです。

4,5-7.なぜ「自由」があるのか

ミルは、そこから更に踏み込み、では快楽を追い求める生活をしている人々を、より質が高い快楽を求めるようにするには、どうすれば良いかを考えます。そして、このように続けます。

「不満足なソクラテスを増やす為に必要な社会的倫理規範は、互いの『個』の尊重である」

ミルはもう一つの著作である『自由論』で、自由の重要性を主張しました。自由とは、その社会で暮らす人々がより高い快楽を目指す人間になる事を促すために存在するのであり、他人を批判したり好き勝手をするために存在するのではありません。現在の我々にも刺さる主張ではないでしょうか?

 

最後に

以上で、今回は締めたいと思います。ここまで御拝読いただきました方々、お付き合いいただきましてありがとうございました。またの御拝読お持ちしております。

 

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