3.形而上学的な感覚こそ、幸福への手段
3-1.人に害をなすのは神ではない
形而上学的な感覚は、絶望的な状況の中から希望を見出す事にも応用できます。実際にそれをやろうとした人物が、アリストテレス達が生きた時代のすぐ後に現れました。
先ほどのプロティノスの時代から巻き戻って、アリストテレス達が生きた時代の少し後のギリシア世界です。アテナイの衰退に伴い、マケドニア王国がギリシアのポリスに攻め込んできました。各ポリスは戦争に敗れ、マケドニアの支配下に置かれます。
しかし、そのマケドニア王国もアレクサンダー大王の急死に伴い支配体制は崩壊し、各地で反乱が相次ぎギリシア世界は先行きが見えない動乱の時代に入りました。そんな中、益々人々は幸福に生きる為にはどうすれば良いのかを考えるようになります。
そこに現れた哲学者が、エピクロスです。彼はこのような時代の中でも人間が幸福になるにはどう考えるべきかについて思索を巡らします。
エピクロスは、まず当時人々を脅かしていた宿命論について考えます。「このような時代に生まれたのだから仕方が無い」、「このようなポリスに生まれたのだから仕方が無い」、こういった考えが人々の間に伝染していました。エピクロスは、この宿命論を乗り越えるため、デモクリトスの原子論を持ち出します。
「大いなる一なるものが存在するがそれを認識する事は出来ない」と主張したパルメニデスに対して、デモクリトスは「極小の多なるものが存在していて、それらがくっついたり離れたりすることで物体が成り立ち、生成変化している」と主張しました。
古代ギリシアの時代に既に原子の考え方の原型が完成していました。しかし、この時代における原子論は、主流となったプラトンがパルメニデスの考え方を支持したため、傍流の考えの一つに過ぎませんでした。
エピクロスはその原子論に注目し、この世界は原子の運動により神に関係なく偶々成立しているに過ぎないのではないかと考えました。そして、神について以下のように考察します。
エピクロス「もし神が悪を妨げる意思はあっても、力が無いなら全能ではない。力があっても意思がないなら邪神である。力も意思もあるなら悪はどこから来るのだろう。力も意思もないなら、なぜ神と呼べるのだろう」/「もし神が人間の祈りをそのまま聞き届けていたならば、人間は全てとっくの昔に亡びていたであろう。というのは、人間は絶えず、互いに、多くのむごいことを神に祈ってきているから」/「多くの人々の信じている神々を否認する人々が不敬虔なのではなく、かえって多くの人々の抱いている臆見を神々におしつける人が不敬虔なのである」
エピクロスは神について具体的な思索を巡らせ、人々を苦しめるような神がいると本当に思うのかと問いかけました。さらに、神が定めた宿命によって自分は幸福になれないと思い込んでいる人々に対して、エピクロスはこう言います。
エピクロス「思慮ある人は偶然を神と見なしたり、偶然が世の中の事象の原因とは考えない」/「人間が自分で得られることを神に頼んだところで無駄である」/「神々に対して敬虔で、死を恐れず、自然の定めた目的を考えている人は優れている」
今自分に不幸な出来事が起こったとして、それが神が定めた宿命なのか単なる偶然なのか、どうやって見分けるのか。その原因について神様は考えてくれない。それを自分で考え行動できる者こそ、自分の宿命を自分で決められる賢者なのだ。そのようにエピクロスは主張しました。
3-2.死への恐怖如きで、人生を無駄にするな
プラトンのイデア論は、「感覚よりも理性の方が大事なんだ」という意識を当時のアテナイの人々に印象づけ、それがギリシア世界の哲学界に広まりました。そのイデア論にアリストテレスは疑問を投げかけましたが、エピクロスはこの「感覚よりも理性が上」という考え方を更に強く批判し、「感覚こそが全てだ」と主張しました。
そして、「死」という誰もが避けられない出来事に対し、エピクロスはこのように主張します。
エピクロス「死は我々にとって何ものでもない。なぜなら我々が存在するときには、死はまだ訪れていないのであり、死が訪れた時には我々は存在しないのだから」
彼は先ほどの原子論を人間の身体にも適応しました。まず、生きているときに「死ぬ」という出来事を体験することは出来ません。そして、私達が死ぬとき、私達の身体に基づく感覚も原子に分解されて消滅します。感覚がないので、「死ぬ」という出来事を感じ取る事は出来ません。
エピクロスの「死」についての説明に、「神」も「魂」も出てきません。あるのは「自分が死ぬときどう感じるのか」という視点だけです。現実主義、と言う意味ではアリストテレス以上かもしれません。
こういった考え方を打ち出したのも、「死」という避けがたい出来事に対する恐怖を和らげる為でした。エピクロスは神も死後の世界も否定するつもりはありません。しかし、「神」や「死」に対しても徹底して論理的に向き合う事で、「神」や「死」に対しても取り乱さない心を持つ道筋を人々に示しました。
「分からないという理由だけで必要以上に怯える事で、せっかくの人生が台無しになる」と自身の哲学の中で訴え続けたのです。
エピクロス「だから、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生をかえって楽しいものとしてくれる。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間をつけ加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。」
こういったエピクロスの思想を賞賛した人物は多数いましたが、ニーチェもその一人でした。
「エピクロス。私はエピクロスの個性におそらく誰とも違う感じかたをすることに誇りをもつ。私は彼のことを聞いたり、読んだりすると、古代ギリシアの午後の幸福を味わう。その光景は陽光やエピクロスの視線そのもののごとく全く安らかで静穏だ。かくのごとき幸福はたえまなく苦悩する人間のみが見出だす。かつてないほどの謙虚な官能的悦楽である」『悦ばしき知識』
3-3.賢者の最上の快楽は『魂の平静さ』
プラトンもアリストテレスも、社会の中で徳を発揮するのが善いことであり、そのように人生を送るのが「幸福な人生だ」と主張しました。エピクロスはこの事を全否定するつもりはありません。
しかし、それは哲学者達が理屈や都合で主張しているのではないか。本人が本当に幸福だと感じているかどうかは別の問題だろう。エピクロスは、プラトン達の幸福論にそのような鋭い批判を浴びせました。その上で、こう断言します。
「快楽こそが判断基準の全てだ」
自分が何を持って「快い」と感じるのか、その事としっかり向き合え。そして、自分が感じた快楽がよい快楽か悪い快楽かよく吟味せよ。そのように主張します。
どういう快楽が「よい快楽」なのか。エピクロスは快楽をそれに対応する欲望から分析します。例えば、不死の命がほしい、何でもこなせる人間になりたい、といった欲望は、自然的でも必然的でもないと彼は考えました。そう言った欲望は空虚な臆見から生ずる欲望であり、無分別のしるしであると主張します。この無分別さが、元々所有していないものに苦しむ原因だといいます。
次に「贅沢をしたい」という欲望についてエピクロスは考えました。だれでも贅沢をしたいと思うのは自然なことですが、贅沢は必然的なことではありません。それは「目先を変えたい」という気まぐれで起きている欲望に過ぎないため、その欲望に振り回されるのはよい快楽とは言えません。そして、エピクロスはこのように言います。
エピクロス「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これらが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう」
自然で必然な欲望を満たすことに対する快楽こそが真に優れた快楽であり、その快楽に満足できる感覚を持った人間こそ、ゼウスと競うことが出来るような賢者である。このような自然な欲望が満たされ、心身の苦痛のない状態を、エピクロスはアタラクシア(魂の平静さ)と呼び、これこそが最高善(幸福)であると考えました。
さらに、先ほどの「自然でも必然でもない欲望」や「自然ではあるが必然ではない欲望」に対する快楽はよいものではないと判断する事が知恵の役割だ、とも述べています。
3-4.東洋の真理に到達した西洋の哲学者
このように考えると、エピクロスが言う所の「賢者」というのは、アリストテレスの「徳のある人間」と大きな違いがなさそうに思えます。また、幸福になる:魂の平静さを得る為には、「自然な事柄に快楽を感じる人間」になる必要がある、と考えた点では、
優れた直観を得る為の感覚を身につける修行の重要性を強調する(原始)仏教やあるがままの自然の中にこそ本当の幸福があると主張する老荘思想といった東洋思想の発想とも共通しています。
ただ、お釈迦様はエピクロスのいう「賢者」になるまでの道を明らかにしたという点でエピクロスの先を行っている、ともいえますが。また、エピクロスと似たような考え方をした荘子は、ほぼ同時代に活躍しました。ちなみに、大乗仏教は中国大陸において老荘思想と結びつき、浄土宗や禅宗の原型となり、日本に伝来して仏教哲学が日本で発展していくことになります。
エピクロスはプラトンのように神や魂といった観念は重視しませんでした。しかし、彼が独自の哲学を展開できたのは、形而上学的な感覚を徹底して研ぎ澄ませたからです。「死」とは何か、「神」とは何かという疑問に対して、自分の意見を反映させた答えを論理的に導くことが出来たため、エピクロスの哲学は完成したのです。
また、先述のプロティノスの時代と違い、仏教的な思想はギリシア世界には殆ど入って来ていませんでした。しかし、エピクロスは西洋の形而上学的な感覚に基づいて導き出した結論は、東洋思想の真理にも近づいたものだった、と見なすことも出来ます。
これも西洋哲学史の流れの一つなのですが、西洋の哲学者が東洋哲学の真理を結論として打ち出す、という事がしばしば起こります。それぞれの特徴を簡潔に言うと、西洋哲学は理性主義、東洋哲学は直観主義です。
しかし、理性に基づいて論理を展開していった結果、「論理だけでは説明出来ない事がある」事を論理的に導き出してしまった、という哲学者が今後何人も現れます。エピクロスや、先述のプロティノス、そしてこの後説明するアウグスティヌスも、まさにそうです。アウグスティヌスは正確には哲学者ではないのですが・・・
そして、西洋哲学に東洋の哲学を本格的に取り入れようとする哲学者が現れるのは近代哲学の時代であり、ニーチェにも大きな影響を与えたアルトゥール・ショーペンハウアーです。彼の哲学は仏教の一切皆苦の思想などに影響を受けたペシミズム(悲観主義)が貫かれており、進歩主義哲学と呼ばれたゲオルグ・ヘーゲルに対するカウンターでもありました。
3-5.「隠れて生きる」事を許さない社会
そしてエピクロスは、賢者を知るのは賢者だけだ、と考え、「隠れて生きよ」と主張しました。社会に参加することで、官能的、刹那的な余計な快楽に惑わされる事を避けるためでした。アテナイの郊外に「エピクロスの園」と呼ばれる学び舎を作り、弟子や友人達と生涯過ごしました。
友情について、エピクロスは「友と共に過ごす事は楽しいが、その事を後で思い出すのも楽しいので、長く続く益がある」と語っています。彼は晩年尿道結石により激痛に苦しむのですが、「尿道や腹の病は重くて、激しさの度は減じないが、それにもかかわらず、君とこれまでかわした対話の思い出で魂の喜びに満ちあふれている」と友人に手紙を書いています。友情、友愛を重視していた点も、アリストテレスと似ているといえます。
しかし、エピクロスの思想をよく思わなかったのが、共和制ローマの有産階級の人々でした。世界がローマの元で安定していく中、人々には積極的に社会に出て、協力してローマをもり立て平和を維持する事が求められていました。
それなのに、優れた才能があるにもかかわらず、「隠れて生きる」人を社会で頑張っている人が見たら、釈然としなかった事でしょう。そのうち、エピクロス派の人たちのことを、「快楽主義者(エピキュリアン)」と揶揄する声が上がり、嫉妬と懐疑、嫌悪の目が向けられる事になりました。
特に、共和制末期の哲学者であり、政治家でもあったキケロはエピクロスの哲学を厳しく批判しました。彼は優れた弁舌家で哲学や法学に多大な功績を遺した偉人なのですが、法律家らしい厳格な性格がエピクロスの自由な思想を嫌ったのかも知れません。
その後ローマは帝政になり、先述の通りキリスト教が国教になったのですが、今度はキリスト教徒がエピクロス派の人々を批判し始めました。エピクロスは神を否定していませんでしたが、エピクロス派の思い描いた神のイメージがキリスト教のいう神とかけ離れていたため、「無神論者」扱いされたからです。
エピクロスは著作を多数執筆したのですが、これらの不幸が重なり、その作品の殆どが散逸してしまいました。ローマの詩人ルクレティウスが自身の作品の中にエピクロスの言葉を多数引用しており、彼の作品は残っていたため、完全にエピクロスの思想が消えることはありませんでしたが。
3-6.ストア派に吸収されたエピクロスの思想
では、エピクロスの思想はローマから排除されたのかというと、そうとも言えません。
ローマで主流の哲学となったのは、ゼノンという人物が起こしたストア派哲学なのですが(先述のキケロもストア派の哲学者です)、後の帝政ローマの時代に、セネカという哲学者が現れ、「ストア派とエピクロス派が求めるものは本質的に同じなのではないか」と主張し、エピクロスの思想を公平に分析しました。その中で、キケロのエピクロス批判を精読し、事実に基づいて批判していない箇所を明らかにしたりしました。
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