4.不知の自覚に至る努力を
4-1.習うより慣れろ
先ほど、キリスト教の始まりと仏教の影響について説明しました。これらは宗教という形を取ってはいますが、その教団の内部では「人が幸福な人生を送る為にはどう生きれば良いか」を研究していたのは共通していました。キリスト教はキリスト教神学として、仏教では仏法経典としてそれぞれ独自のやり方で議論を重ねていきました。
先述の通り仏教は直観主義です。日本三大禅宗の一つである、曹洞宗の開祖である道元が著した『正法眼蔵』には、このようなことが書かれています。
漸源仲興大師に、あるとき僧が問うた、“古仏心(*)とはどういうもの でしょうか”。
師は云った、”世界崩壊である”。僧は云った、”世界崩壊とはどうなるのですか”。
師は云った、”我が身は無くなろう”
(*)・・・かつて覚りを得た人たちの世界観
「禅問答」という単語は、「わけがわからない無駄な会話」というニュアンスで使われますが、それは一般人の感覚では理解しがたいこういった会話を、禅宗の中でしていたことに由来します。しかし、本来これは分かる人にはわかる話なのです。
仏法というのは、論理的に体系立てられたものではなく、覚ったときに体験する世界を、その体験者がどう感じ取ったのかをまとめたものです。だから、そこに書かれていることを何故そうなるのか論理的に説明する事は出来ません。
先ほどプロティノスの話をしましたが、「我が身がなくなる」というのは『一者』と一体化するという話とそっくりです。仏教では、西洋哲学のいう『一者』に到達する為の方法として『禅』という修行法を開発した、というわけです。
「覚り」を言葉で説明する事は不可能だから、「覚り」を得たいのなら、正しいやり方で修行する以外にない。そして自分で「覚れ」。究極の「習うより慣れろ」、これが仏教の直観主義です。そしてこの考え方は、日本人の基本的価値観の中にも埋め込まれていきました。
4-2.何故この世に、悪があるのか
一方西洋では、理性では捉えきれないナニカがある事を分かった上で、それでも理性を重視しました。これはギリシア哲学の影響を受けていることもありますが、キリスト教会が「カトリック(普遍)」を掲げているため、教義をどんな人間が考えても理解できるものにする必要があった事も影響しています。だからこそ、ソクラテスの言う「不知の自覚」といった形而上学的な感覚で真理を明らかにしようという姿勢がありました。
そんな真理を求めた人物の一人が、アウグスティヌスです。彼は結果として、キリスト教会の分裂の危機を救い、哲学的にも先験的な発想をいくつも打ち出した、歴史に名を残す大司祭になったのですが、はじめからキリスト教を信仰していたわけではありませんでした。
アウグスティヌスは若い頃から真理を求めて様々な事を学び、マニ教の信者となりました。マニ教とはペルシア帝国において、ユダヤ教、キリスト教、仏教、ゾロアスター教から様々な要素を一つにまとめた結果出来た宗教です。
アウグスティヌスは、真理を探究する前向きな気持ちがあった一方で、欲望に負けて倫理道徳を破ってしまう自分自身を冷静に見つめ、自分の至らなさに深く絶望する後ろ向きな気持ちもありました。この二つの心の葛藤は、彼が40歳の時に書いた『告白』という著作に鮮明に書かれています。
マニ教では善悪二元論の立場をとります。世界は善の要素と悪の要素から成り立っていて、人間の魂には善が、人間の肉体には悪が宿っている。悪に基づく肉体が人間を悪事に駆り立てるが、それはいずれ善に基づく魂によって最後には修正されるため、人間が悪事を働く事があるのはある意味自然現象で受け入れるしかない。そのように主張されていました。
しかし、この考え方はアウグスティヌスの後ろ向きな気持ちを癒やしてはくれず、逆にマニ教の教義に疑いを持つようになりました。そしてマニ教から離れ、「人間には悪に対して本当に無力なのか」、「その悪に走る人間をなぜ神は止めないのか」という、「悪の問題」について深く考えるようになりました。この世に悪がなくならないことから決して目を背けずに考え続けた彼の姿は、現実に基づいて思索を巡らしたアリストテレスやエピクロスのようですね。
やがてその問いは、「究極の善であるはずの神とは何なのか」、そして「自分自身にしかないもの(つまり魂)とは何なのか」という疑問に発展します。これがアウグスティヌスの哲学の主要テーマである「神と魂(自己)」です。
4-3.苦悩の果てに、苦悩する自分を自覚した
そんな中、アウグスティヌスはプロティノスの新プラトン主義の哲学と出会います。ギリシア哲学のエッセンスが組み込まれたこの哲学は、自身の弱さから目を背けずに向き合い続けた彼に天啓ともいうべき数多の智慧をもたらしました。
アウグスティヌスは若い頃から様々な思い違いをした結果、様々な悪事に手を染めました。そしてその事をふりかえった結果、何故自分が間違った認識をしてしまったのか、その原因を発見しました。
それは魂、すなわち考える私である自我があるからです。
「私は欺かれることを恐れない。なぜなら、それは『欺かれる私』が存在する事を意味するからである」
『告白』の中でこのような表現が出てきます。もし『欺かれる私』が存在しない、言い換えると、私は欺かれてなんかいないと信じ込んでいると、その認識が間違っていた事にも気付きません。『欺かれる私』がいたからこそ、自分の認識が間違っていたと今理解できるのだ、アウグスティヌスはその真理に気付きました。
これはソクラテスの「私は知らぬものは知らぬと思っている」という不知の自覚そのものです。アウグスティヌスは、悪をなしてしまう自分と向き合い続けた結果、形而上学の極意を直観できた、と考える事も出来ます。
もし、この世界から悪がなくならないことに対して憤っているだけでは、この気づきは得られなかったでしょう。自分自身もまた悪をなしてしまう存在なのだ、と自分事として強く自覚し思い悩んだからこその直観であり、「救い」でした。
4-4.繊細な精神がもたらした哲学の大転換
この気付きを起点として、アウグスティヌスは抱いていた疑問に次々と答えを出していくのですが、彼のこの『気付き』は、哲学史上とても大きな意味がありました。
前回お話ししたように、哲学はミレトスのタレスから始まりました。初めの哲学の対象は自然、すなわち自分の外に広がっている世界でした。このピュシス(自然)に対して、古代ギリシアの人々はポリスを作り、自分たちが支配する領域を拡大して行きました。
やがて、自分たちが絶対である世界(ポリスの中の社会)の事を、「ノモス」と呼び、「ピュシス」と対になる概念としました。その後「ノモス」は、「法律、習慣」といった意味で使われるようになります。ギリシアの人々はピュシスを神の領域として恐れ、崇拝する一方で、自分たちのノモスの領域にも興味を向け始めました。
そして、この「ノモス」を哲学の対象にしたのがソフィストであり、ソクラテスだったのです。その弟子のプラトンは、
哲学(人間とは何か)
→倫理学(人が善く生きる為にはどうすべきか)
→政治学(善く生きる人を増やす為の政治はどんなものか)
という流れを作り、論理を展開していきました。その起点となったのが『イデア論』です。政治学、倫理学は、現在で言う所の社会学、つまり「ノモスを対象にした学問」の範囲に含まれます。
そして、アウグスティヌスは、結果としては、『人間とは何か』から更に踏み込み、『自分とは何か』について考えました。無論アウグスティヌス自身にこの自覚はありませんでしたが。これはある意味で、アウグスティヌスは「心理学」の領域に踏み込んでいる、とも見る事が出来ます。彼は「善をなせないのは、意志が分裂しているからだ」と表現していますが、現在でも人格が安定せずに自分をコントロール出来ない精神病のことを「精神分裂病」と言ったりしますので、やはり少し影響があります。
そして、これが「人間はどうやって世界を認識するのか」という発想に繋がっていくことになるのですが、結論から先に言うと、アウグスティヌスは「神がいてくれるから、人は認識ができるのだ」という主張に落ち着くことになります。
4-5.意志の転倒を防ぐために神に祈る
アウグスティヌスの話に戻りましょう。彼は紆余曲折の後キリスト教に改宗し、神父として働き始めました。先述の気付きのもと、キリスト教の神父として一人一人の信者の相談に乗っていく中で、信者の疑問に答えていくことになります。この質疑応答の中で、「神と魂」、「悪」に対する答えを固めていきます。
まずは「悪」について。アウグスティヌスは「そもそも神は善なるものしか作っていない」と主張しました。それに加えて、新プラトン主義哲学を組み合わせて「悪」を以下のように説明します。
まずこの世界は『一者』、つまりキリスト教がいう神から善なるものが流出してできた世界です。具体的には、『一者』→ヌース(知性または精神)→霊魂→自然→質料、といった順で「流出した善」が変化して世界が作られました。
プロティノスの項で知性の方が魂より上位と説明しましたが、これはヌースの方が霊魂より純粋な善に近い、という意味です。そして、『一者』から最も遠い質料は、最も善から遠い存在であり、質料を持つ人間もまたそうです。
その善から遠い存在である人間が、更に善から遠ざかるような行為こそが悪であるとアウグスティヌスは主張します。悪は神が積極的に創り出したものではなく、善が不足することで生じる概念なのです。
では、何故人間は悪をなしてしまう(善:神から遠ざかってしまう)のか。アウグスティヌスは、こう言います。
アウグスティヌス「魂のあの欲情が抑制されずに肉の快楽にふけると、破廉恥な行為がなされるように、理性的精神そのものが邪悪になるとき、誤謬や謬見が生命を汚すことになる」/「意志は堕落して肉欲となり、肉欲はそれに耽ることによって習慣となり、習慣はそれにさからわないうちに必然となった」
誤謬は間違った認識、謬見は間違った見方の事です。つまり、その人の意志が欲望に負けた結果、その人の理性が歪み、悪であるはずのことを善だと思い込む「意志の転倒」が起こるからだ、と、自分自身及び他者を冷静に観察し続けたアウグスティヌスは主張しました。
神はあらゆるものを創りましたが、被造物である人間は、様々な魅惑的な被造物を善いもの(神に近いもの)だと誤解し、そちらに走ってしまう、と言うことです。しかし、人間を含めたあらゆる被造物は、やがて滅びます。滅びた先は無です。そこに魂の安らぎはありません。意志の転倒による悪について、アウグスティヌスは神と対比させながらこのように説明します。
アウグスティヌス「『野心』という悪徳は、名誉と栄光を求めますが、万物にまさって栄光に輝くものは神です。『支配欲』は人びとを支配して畏怖させようとしますが、 万物を支配し、すべてにまして畏怖すべきものは神です。『媚び』は他人から愛されようとしますが、神の愛よりも魅惑的で麗しいものはありません。『怠惰』は安息を求めますが、神よりも確かな安息をあたえて くれるものはありません。『浪費』は気前のよさを競いますが、 ふれるばかりの善きものをあたえてくれます。『貪り』は多くのものを所有しようとしますが、神は万物を所有しています」
「あなた(神)のもとにかえるときはじめて、純粋透明なすがたで見い出されるものを、あなたに背いて、あなたの外に求めるとき、姦淫の罪を犯します。あなたから遠ざかり、あなたに背いて高ぶる者はすべて、転倒した形であなたを模倣しています」
人間には神が与えてくださった、善の行為か悪の行為かを選択できる「自由意志」がある。しかし、ほとんどの人間は「転倒した(それは、別の見方だと弱い)」意志しかない為「悪の行為」を選択する自由があるだけなのだ。
もしくは、もしかしたら自分の理性で善いことだと判断したことは、悪の意志により生じた歪んだ理性に基づいた「善」なのかも知れない。それを習慣化することで「悪」に走っている存在になっていないか。やはり、不知の自覚に近い発想です。
ソクラテスは、知らない事を知っていると思い込んでいることをやめる事で不知の自覚に至る、といい、アリストテレスは、二つの悪徳から徳を見出す中庸を発揮し習慣化する事で徳のある人間になれると言いました。
しかし、アウグスティヌスは、転倒した意志しか持たない人間は、「神を信じる」事によってのみ魂を善(神)の方向に向けることが出来る(幸福になれる)、と説きました。
先述の通り、自分の理性に基づいて正しい事を知ろうとしても、その理性が歪んでいる可能性があるとアウグスティヌスは気付いたのです。無論、理性により正しい事を知ろうとする事を否定しません。しかし、その判断基準である理性は自分でも気付かない間に歪んでいるかも知れない・・・。
それを防ぐために、神を信じ神に祈れ。アウグスティヌスはそのように主張します。
4-6.普遍的な「救い」を与える説教
では、その神とは何なのか?それを知るヒントは、神が自分と似せて創り出した存在である人間の中にあるとアウグスティヌスは考えました。彼はまず「意志」について細かく分析し、このように述べました。
アウグスティヌス「認識は信仰の報酬なり。ゆえに信ぜんがために認識せんとするにあらず、認識せんがために信じよ」/「知解するために私は信じる」
アウグスティヌスは人の魂の中に、「記憶」、「知解」、「意志」という三つの働きを見出しました。初め何も知らない人は様々な形で学ぶ事で知識を「記憶」します。その「記憶」した知識に基づいて行動していく内に、より正しい認識である「知解」に至ります。
その人の認識が正しい「知解」に近づく(その人が神の方向に魂を向ける)事により、初めて認識された対象を愛しながら肯定する事ができると主張しました。誰かに言われたから肯定するのではなく、自分から愛しながら肯定する働きこそが、本当の「意志」の働きだ、アウグスティヌスはそのように考えました。
仏教において、お釈迦様は物事を正しく認識するために八正道を説かれました。その道に従って修行を重ねる事によって、正しい認識が出来るというわけです。ストイックな修行主義と言えます。逆を言えば、修行に耐えられない者には「救い」がありません。
アウグスティヌスは、自分の魂を正しい方向に向ける為に、神を信じ神に祈れと主張します。キリスト教の神に近づくため必要なのは厳しい修行ではなく「神を信じてひたすら祈る」事なのだ。その祈りが、自身の認識を「知解」に導き、正しい「意志」を与えてくれる、そのように主張しました。
先述のように、アウグスティヌスはキリスト教の神父として多くの信者の悩みを聞き、教え導いてきました。その地道な経験が、より多くの人を「救える」ような思想に至ったと考える事も出来ます。
ちなみに、お釈迦様は自分の教えを初めは人に伝えようと思わなかったと伝えられています。「俗世にまみれた人たちに教えを説いても、理解できるわけがない」と。そこで神仏が登場して忠告を受け、自分が至った真理を説いてまわる決意をした、というストーリーが展開されます。その後仏教は「修行に耐えて仏法を覚った者が仏教を継いでいけばよい」と考えるグループ(上座部)と、「万民を救う教えでなければ仏教が存在する意味がない」と考えるグループ(大衆部)に分かれ、分裂してしまいます。
4-7.そして、三位一体説へ
神は人間を自分に似せて作ったと聖書には書かれている。そして、人の魂(精神)には「記憶」、「知解」、「意志」という三つの働きがある事がわかった。ここでアウグスティヌスは、この三つの働きこそが、神が人間に似せた部分なのだと直観しました。
神は、三つの顔(ペルソナ)を持っているのだ。父なる神、その存在を人に知らしめるために現れた子なるイエス、そして一人一人を神へと導く精霊。この神に対する解釈を「三位一体説」といいます。
ローマ帝国がキリスト教を国教とした時、早くもキリスト教会は分裂の危機に見舞われました。
ローマ帝国は初めキリスト教を弾圧していました。ネロ帝のキリスト教徒の虐殺は有名ですし、余り知られていませんが、先述のマルクス・アウレリウス帝もキリスト教徒には厳しい態度を取っていました。
そして、アウレリウスの後の時代の3世紀に、ローマ帝国のキリスト教弾圧は最高潮に達しました。その弾圧の中で、多くのキリスト教父がキリスト教から離れました。西暦311年、ローマ帝国はキリスト教を国教とする「ミラノ勅令」を出したことで、離れていた教父達も戻ってきました。
ところが、大弾圧の中でも命がけで説教してきた教父達は、この戻ってきた教父達が説教する事に納得できませんでした。元々いた教父達はドナティスト(彼らのリーダーがカルタゴで司教を務めていたドナトゥスという人物だった事が由来)と呼ばれ、一派を形成しました。
この動きを皮切りに、聖書の解釈を巡り、アリウス派、ネストリウス派といった派閥も現れ、大論争に発展しました。この論争を「秘蹟論争」と言います。アウグスティヌスはこの論戦に参戦し、自身の三位一体論を発展させながら、次々と相手を論破していきました。そして最終的に、ペラギウスという最高の論客を破り、キリスト教会は三位一体説をその基盤とすることがニケーアの公会議で決定されました。
ペラギウスは、先述のローマ主流哲学だったストア派哲学に精通しており、聖書も十分に読み込んだ教養豊かな教父でした。アウグスティヌス自身も、ペラギウスのことを尊敬していました。しかし、その論戦中に、「人間は人間の力で幸福になるべきなので、人間には神の恩寵など不要」という失言をしてしまい、異端認定されてしまいました・・・。それでもアウグスティヌスはペラギウスのストア哲学を上手く取り入れた聖書の説法を、自身の教えに吸収しました。
4-8.そして、神学と哲学は切り離された
アウグスティヌスの活躍により、キリスト教会は一つの組織としてまとまり、中世ヨーロッパに大きな影響を与えていくことになります。やがて東西に分裂したローマ帝国のうち、西ローマ帝国はアングロサクソン系の異民族やケルト人から侵攻を受けて滅亡し、小国分立の状態となります。これが現在のヨーロッパの原型になっていくことになります。
やがて、キリスト教会が各国に立てられていく中で、教会の下部組織である修道院でもキリスト教を研究する動きが起こりました。アンセルムスという神父により、スコラと呼ばれた修道院の教育機関で教えられた神学だったため、「スコラ哲学」と呼ばれました。教父哲学に比べて、より論理性が強調されていました。これは、庶民に近い層にも納得した理解をもたらすためでした。
やがて、スコラ哲学はトマス・アクィナスによって、イスラームで研究されていたアリストテレス哲学を吸収し、論理性が更に上がりました。教父哲学はスコラ哲学と影響し合いながら発展していきました。
しかし、スコラ哲学の中で、「哲学と神学を分離させよう」とする動きが起こります。イギリスの哲学者であるウィリアムのオッカムにより、スコラ哲学は非論理的な部分をそぎ落とされ、分解されていきました。
そして、かつてアウグスティヌスの「私は欺かれることを恐れない。なぜなら、それは『欺かれる私』が存在する事を意味するからである」と全く同じ気付きを得た人物が現れました。彼はこう言います。
「我、思う、故に我あり」
そう、ルネ・デカルトです。しかし、この言葉に籠もっていた意味は、アウグスティヌスとは正反対のものでした。
「神が存在するから、私が存在するのではない」
神がいるから、私がいて、神が叡智を授けてくださったから私達は世界を認識できる。キリスト教神学ではそのように考えられていました。しかしデカルトは、私がいて、私が考えた結果、神があり、この世界が存在するのだ、と主張しました。
デカルトは神を否定していませんし、神の存在を論理的に証明もしました。しかし、神がいるから私達が世界を認識できるというのはおかしい、と主張したのです。当然この結果、
「なら、私達はどうやって世界を認識しているんだ」
という話になり、神学から切り離された哲学の主要テーマが「認識論」となり、近世哲学が始まっていくことになります。そしてそれは、フランスのデカルトを出発点とする大陸合理論(理性主義)と、イギリスのベーコンを出発点とするイギリス経験論(現実主義)に分かれてそれぞれ発展していくことになります。
この二つの論理は近代に入ってカントによってドイツ観念論として一つにまとまる、とよく教科書などには書かれていますが、ドイツ『観念論』、つまりプラトンのイデア論と同じ理性主義であり、カントは「私達の世界」と「モノ自体の世界」の二元論で話を展開しています。大陸合理論をベースにしてイギリス経験論を吸収したような形で、カントはドイツ観念論を始めました。
では、イギリス経験論はどうなったのかというと、一つは新興国家であるアメリカ合衆国に伝わり、「プラグマティズム」という新しい形に変化して、もしくはイギリスで発展していき「実証主義哲学」として、それぞれ発展していきました。
4-9.「救い」が切り離された哲学
さて、デカルトは哲学を神学から分離し、哲学を発展させてそこから近代科学が生まれました。人類の進歩のように思えます。しかし、それは本当に良いことだと断言できますでしょうか?
現在でもデカルトは科学を進歩させた偉人として讃える声がある一方、哲学を汚した人物として批判されることがあります。確かにデカルトは、腐敗した教会の権力のせいで自由に学問が出来ない閉塞感の中で新しい道を切り開いた側面はあります。
中世の末期になると、教会権力が腐敗し一部の神に仕える者が欲望の限りを尽くしていたことは事実です。それ故にルターの宗教改革の動きが起こり、カトリックに対してプロテスタント(抗議する者)が現れることになります。
しかしながら、「人を救うにはどうすれば善いか」という研究は、教父哲学やスコラ哲学の中で粛々と議論が重ねられ、「救い」を与えるキリスト教神学の理論は完成していました。それこそ最初に紹介した仏法経典とくらべても引けを取りません。
しかし、デカルトはその哲学を結果として破壊する引き金を引きました。哲学は人間から離れ、更に人間から離れた科学を生み出し、それが産業革命に繋がっていきます。そして資本主義、国民国家が出来、その結果はどうでしょうか?富める者がますます富み、貧困者はどんどん貧困になっていく結果を生み出しました。
挙句の果てにフランス革命が起き、フランス国王は処刑され、その後も大勢の人間が死ぬことになりました。何故こんな事になってしまったのでしょうか?完成したキリスト教神学の元で神に仕える者がしっかり教えを広めなかったからでしょうか?哲学は「善く生きる」為にはどうすれば良いのかを研究する学問だったはずです。少なくとも、アウグスティヌス達はそれを目指していたはずです。
そんな中で、デンマークにある哲学者が現れます。セーレン・キェルケゴールです。かれもまた繊細な精神を持ち、様々な困難に耐えながら自分自身を発見しました。そして、自分にとって絶対的な存在を意識する事によって、はじめて人は救われるのだ、とかつてアウグスティヌスが到達した結論に辿り着きました。
キェルケゴールは自身の哲学を発表しました。しかし、周りの人間は「世界はお前を中心に回っているのではない」と揶揄するばかりでした。彼は、「こんな事になっているのは、本来人に救いを与えなければならない教会がその役割を果たしていないせいだ!」と激怒し、教会を厳しく批判しました。
人間は単一な存在ではない。客観的な事実、客観的な世界、そんなものはありはしない。あるのは主観的な世界だけだ。人間は一人なのだ。そこまで気付き、絶望した先にこそ、心の中に神を見出す事が出来る。
資本主義により社会の部品になっていく世の中の流れの中で、キェルケゴールは絶望の中に「救い」を見出しました。彼は実存主義哲学の始祖となり、現在でもこの哲学は「生のセラピー」と呼ばれることがあるほど、精神科医など様々な人が注目する哲学となっています。
おわりに
如何でしたでしょうか。最後にアリストテレスの今回の名言について、少し補足させていただきます。
先ほど、プラトンは哲学→倫理学→政治学と展開したと説明しましたが、アリストテレスもプラトンの主張に批判を加えながらこの流れで話を展開しました。その中で倫理学に当たるものが、『ニコマコス倫理学』です。
ニコマコス倫理学は10巻からなり、最初の方でアリストテレスは「人々の生活は3種類ある。快楽的生活、政治的生活、観想的生活である」と主張します。そして、この倫理学のほとんどは社会的生活について言及しており(社会で徳を発揮するにはどうすれば良いか)、観想的生活について言及するのは10巻の最後です。
この理由は前回及び今回でも言及しましたが、「人々の殆どは快楽的生活を送っており、その中の一握りが社会的生活を送っている」事をアリストテレスは分かっていました。なので、快楽的生活を送っている人が少しでも社会的生活を目指してもらえれば、という意図が籠もっています。
本来、観想的生活というのは、社会の中で徳を十分発揮出来た人が目指すべきものだ、とアリストテレスは考えていたようです。なので、今回の2番目の名言は、本来こうなっています。
アリストテレス「そしてこの倫理学講義を修了した者たちのみに、敢えて言おう。徳の実践は、いずれも感情と身体に結び付いているという点において、我々に内在するものうち最善である知性に基づいた『観想』には劣る。神の領域であり哲学者の仕事である『観想』こそが、それ自体を目的とする完全な幸福なのである」
それでは、今回はここまでとなります。最後までご拝読いただきまして、誠にありがとうございました。またのご閲覧をお待ちしております。
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