補足篇
如何でしたでしょうか?先述の通り、すこしスタイルを変えさせていただきました。読みやすくなっていれば幸いです。それでは、補足を始めて行きたいと思います。
1.イデアとは「あり方」である
1-1.正しく理性を発揮させ、他者とわかり合う
先ほど述べたように、
「我々には認識できない一なる不変な『ある』ものが、様々な『○○な』ものに変化した。その『○○な』ものの影が、我々の世界にあるものだ」
とプラトンはいい、私達は、私達の目の前にあるものから共通のイデアを見て取ることが出来ると主張しました。
そして、前回解説したように、プラトンの主張を引き継いだプロティノスは、
「哲学とは、万物の究極的根源である『一者(ト・ヘン)』に還っていく過程だ」/「『一者』に至るためには哲学だけでは足りない」
と主張しました。プラトンの言う「善のイデア」を「『一者』」と言い換え、哲学をする事である程度は『一者』に近づけるが、さらに近づくには哲学以上のナニカが必要だ、と論理的に説明しました。
この新プラトン主義を『一者』=イエスのいう神、としてキリスト教が吸収し、イエスの弟子達がまとめた新約聖書の内容を解釈していく中でキリスト教神学が発展していくことになります。
そして、キリスト教会:カトリックはこのようなことを主張するようになります。
「信仰と理性は調和する」
これは先ほどのプロティノスの主張から考えても矛盾しません。キリスト教の神を信仰する事と、神から与えられた理性を働かせて哲学をする事は、同じ方向を向いているとカトリックにおいて考えられてきました。そして哲学ではなく信仰こそが神に近づくために最も必要なことだ(「哲学は神学の端女」)と論理展開されました。この考え方は、人間全体は理性によって同じ理解が得られる、という思想に繋がっていきます。
そして、かつてのプラトンのように「理性」を最重視した哲学者が、約1900年後の17世紀フランスに現れることになります。ルネ・デカルトです。
デカルトは天才的な才能を持って生まれ、厳格なカトリック教会の教えを受けて育ちました。彼は鋭すぎる理性により、学校で学ぶ既存の学問に疑問を抱いていくことになるのですが、「信仰と理性の調和」自体は自身の信念として受け入れていきました。そして、後の著書でこのように主張するようになります。
この世にあるもので、最も公平に分配されているのが良識である。『方法序説』
良識(ボン=サンス)とは、万人に生まれつき備わっている理性能力をデカルトが指して言った言葉です(「自然の光」という表現もしました)。人間は一人一人異なるが、「良識」は誰でも生まれつき持っている。デカルトはそのように考え、良識という理性を正しく使うためにどうすれば良いかを『方法序論』で論じました。
また、このようなことも綴っています。
われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と慣例だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけないと学んだ。『方法序説』
デカルトは大学で一通りの学問を修めた後、それ以上の知識を得るために世界を旅したのですが、それぞれの土地に住む人々は異なる習慣で暮らしていて、観念的な知識の意味の捉え方もバラバラでした。プラトンは人間が理性で読み取るそのもののイデアは共通していると言っていましたが、実際には人間は必ずしも共通した観念を持っていない事に、デカルトは気付かされました。そして、こう主張します。
人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる。『方法序説』
人間が人間として生まれてくる以上、人間に共通する理性である良識を持っている。しかし、その良識を生まれた場所の習慣などによって偏った使い方をすると、バラバラの認識になってしまう。だからこそ、良識の正しい使い方をハッキリ示すことによって、全ての人間は共通の理解に至ることができるはずだ。デカルトはそのように考え、『方法序論』を執筆しました。
1-2.人の力だけで、真理に到達する
デカルトは「信仰と理性は調和する」という思想から、「人間には共通理性である良識が備わっている」と確信しました。しかし、デカルトとほぼ同時代を生きたフランシス・ベーコンは全く違う考え方をしました。
デカルト達が生きた時代の少し前に、宗教改革が起こりました。このキッカケは様々な要素があるのですが、ここでは「教会の腐敗」とさせていただきます。民衆は苦しい生活をしているのに、教父達は彼らに『救い』を与えずに信仰を利用して私腹を肥やしている。その不満はマルティン・ルターが『95ヶ条の論題』を教会に提出した事をキッカケに爆発し、カトリックに対して「プロテスタント:抗議する者」という新たな教会勢力が誕生しました。
そんな中、ベーコンはイギリスの貴族の家に生まれ、母親が熱心なプロテスタントだった為、プロテスタントとして教育されました。プロテスタントの大きな特徴は、「人間の知性では神を認識する事は出来ない」でした。不完全な人間は不完全な理性しかもっておらず、そこからどんなに神を理解しようとしても無駄である。ならば、信仰は信仰として神を信じ、理性は理性として哲学すればよい。こう考えることにより、神と人を繋げる教会は必要なくなります。つまり、
「理性と信仰は調和しない」
という、カトリックと真逆の考えに至ったのです。プロテスタントの教育を受けたベーコンは、上記の思想から「人間は、神に頼らずに自分たちの力で自分たちを守らなければならない」と考えるようになりました。
では、ここでベーコンが言う「力」とは何か。彼はこのように主張します。
「人間は自然に服従することによって、自然を支配することが出来る」
神は無限であるが、自然は有限である。だから、自然を観察し、自然に関する知識を積み重ねていけば、いずれ自然をも支配できる。その自然を従わせるような知識こそが人間の力となる。ベーコンはそのように考えました。
しかし、かつてアウグスティヌスが言ったように、不完全な理性しか持っていない人間は様々な事を間違えます。キリスト教では過ちを犯すことを、偽物の神(偶像、イドラ)に騙される、と解釈します。神に頼らずに、人間の力だけで正しく理性を発揮して真理に到達するにはどうすべきか。彼は更に思索を深め、このように考えました。
「もし人間が騙されやすい偶像をハッキリさせておけば、人は神に頼らずに過ちを回避できるのではないか」
そして、その具体的な方法を『ノヴム・オルガヌム』で著す事になります。『ノヴム・オルガヌム』とは、アリストテレスが著した『オルガノン(論理学)』を意識したベーコンの著作で、「新しい論理学」といった意味です。この中でベーコンは「偶像」の正体について論じています。それこそが「4つのイドラ」です。
ちなみに、現代に入るまでにイドラはアイドルという言葉に変化しました。つまり、アイドルとは本来「偶像」という意味だったのです。だからこそ、今現在も多くの人間がアイドルという「偶像」に振り回されている、という語源に皮肉めいた意味があります。
種族のイドラ(何についても人間の感覚で判断してしまうことからくる偏見),洞窟のイドラ(それぞれの個人に特有の偏見),市場のイドラ(他の人々との交際から生まれる偏見),劇場のイドラ(特定の哲学や主義・思想に影響されたことから生まれる偏見)、これらのイドラこそが「偶像」の正体だ。ベーコンはそのように主張しました。
この考え方は、特にプロテスタントにとって画期的でした。正しい理性を働かせるのに、信仰が必要なくなるからです。『ノヴム・オルガヌム』をベーコンは正しい円を描くためのコンパスのようなものだといいます。この道具を使えば、人間の力だけで真理に到達する事が出来るのです。さらに彼は結論として次のように述べます。
「人間の知識と力は合一する。原因が知られなければ、結果は生ぜられないからである」/「不可思議──それは知識の種子である」
これが教科書にも載っている有名なベーコンの名言「知は力なり」の正しい解釈です。自然を観察・実験していく中で「不可思議なこと」を拾い上げ、それをイドラに惑わされないように正しく解釈していくことによって、神に頼らない人間の力を得る事が出来る。そのように考えました。
今回は以上で終わります。それでは、ここまで御拝読いただきまして誠にありがとうございました。またのご閲覧お待ちしております。
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