補足篇
2.イデアを読み取る力があるのは人間だけ
プラトンは、
「人間にはそのもののイデアを一撃で読み取る力がある」
と主張しました。これはこのようにも言い換えられます。
「人間と動物の違いは、イデアを見抜く力があるかどうかだ」
人間と動物の違いは何なのか。これは、近世において問題になっていました。
2-1.自然の前では、人間も動物も同じである
デカルト達が生きた時代の少し前、ミシェル・ド・モンテーニュという人物がこのような疑問を投げかけました。
「人間と動物に、一体どういった違いがあるのか」
彼は後年、モラリストと呼ばれました。現在はモラル=道徳、と考えられていますが、元々モラルとは、道徳哲学(moral philosophy)の事を指し、「道徳とは何か」を思索し追究する哲学の範囲全体の事です。人間とはどういった存在で、そんな人間が善く生きるためにはどうすべきなのか、を考え思索する人々のことをモラリストと呼んだのです。そして最も注意深く自分自身について観察し、それを元に人間をよく観察したのも特徴です。
「人間とは何か」を考える姿勢はソクラテス達に似ていますし、特に自分自身を念入りに観察する姿勢はアウグスティヌスとも似ています。ちなみにモンテーニュ以外のモラリストに、パスカルの定理で有名なブレーズ・パスカルがいます。彼は後にデカルトの神の捉え方について厳しい批判を浴びせることになります。
そんなモンテーニュは中世のフランスで貴族の子として生まれました。この点はイギリスのベーコンと似ています。彼は裁判官として働いていたのですが、ある時仕事を辞めて自宅でひたすら著作活動を始めることになります。このときに先述の人間観察に基づいて書かれたのが『エセー』です(これは現在のエッセイの語源ともなっています)。
この「エセー」というのは、モンテーニュがフランス語の「エッセイエ:試み、実験」からとって付けた名前であり、彼はこの著作について「自分の判断力の試みである」と説明しています。人間を、そして自分自身を懐疑的に観察した結果どういう結論になるのか。モンテーニュはこの『エセー』を生涯書き続けました。その中で、最後の方でこのように言っています。
「われわれは自然を棄ててしまったのに、自然の教えを、自然から学ぼうとしている。自然は、われわれをかくも幸福に、かくも確実に導いてくれていたのである」
以前、ローマ帝国の西側にケルト人やアングロサクソンの異民族が侵攻し、小国乱立となった事を説明しました。当時のヨーロッパの大部分は大森林に覆われていました。そこから各国の国王は、ローマ教皇の教えである「神の国」の実現のために森林を開拓していきました。この「神の国」とは、アウグスティヌスの著作に出てくる発想であり、プラトン的に説明すると、現在ある国(地上の国)の理想的な形(イデア)の事を指します。
国王達は、新約聖書に書かれているような「神の国」に自分の国を近づける、という大きな目標をローマ教皇から与えられていました。その各国の切磋琢磨の中で、中世世界は平和を維持してきたわけです。
ちなみに、その一環として、野生動物を捕まえて人の手で管理することで、聖書の内容を再現する試みも行われました。これが自然を知る為に生きた動物を観察する視点と結びつき、現在の動物園の原型になっていきます。
モンテーニュの時代までに、人間は森林を伐採し動物を追い払うことで国を作ってきました。彼の言う自然を捨ててしまった、とはこの事を言っています。自分自身という存在を通して人間を観察していった結果、モンテーニュの人間への懐疑は自然への賛美という結論に辿り着きました。これが教科書などにも書かれている「寛容の精神」の考え方にも繋がっていきます。
モンテーニュが人間という存在に対して徹底した懐疑主義を以て観察に臨んだのには、前回も解説した「ユグノー戦争」及び「ルネサンスによる人文主義(ヒューマニズム)」が関わってくるのですが、これを話すと長くなってしまうのでそれは後日改めて行おうと思います。
かつて古代ローマのストア哲学では「自然に従って生きよ」と主張しました。ここでいう「自然」とは本来の自然の意味の他に「人間が本来持っている理性」の事を指し、その理性を自分の意志によって余計な情念を吹き飛ばして正しく発揮する事をストア哲学では目指します。
以前アウグスティヌスの説明の時に、「人間は人間の力で幸福になるべきであって、神の恩寵など必要ない」とペラギウスが主張したと解説しましたが、ストア哲学では人間の理性は元々生まれ持っていて、それを意志の力で使いこなす事が幸福の道だと考えられてきました。この点が、「人間は神の恩寵なしでは正しい理性を発揮する意志を持つことは出来ない」と考えるキリスト教神学と違う点です。
言い方を変えると、人間は理性を生まれ持っていて、それを発揮して生きる事を自然の摂理だとストア哲学は見なしていた、と言うことです。モンテーニュは自身が生きた混乱した時代の中で、キリスト教神学とは違う思想であるストア哲学に『救い』を見出しました。神の元に行く事を目指すよりも、自然に従って生涯を終える事を求めるべきだ。そのように彼は考えました。
しかし、モンテーニュはストア哲学を全てよしとしたわけではありません。ストア哲学は、アリストテレスの「人間はその魂に神的部分を宿しており、この点で動物とは異なる」という主張を引き継いでいます。モンテーニュは人間が優れているという思想を懐疑の目で見ていた為、動物に次のような可能性を見て取りました。
「動物は人間と同じように喜怒哀楽の感情や記憶力及び推論力を持っていて、言葉により意思疎通もしているのではないか」
「人間と動物にどんな違いがあるのか」というのは、「人間も動物も自然に従って生きている。その点では両者に違いが無いのではないか」という事です。
モンテーニュは『エセー』を人に見せるつもりはなかったのですが、彼の死後その思想は広まりました。その結果、キリスト教神学の土台を揺るがしかねないと教会から判断され、『エセー』は「禁書目録」に指定されてしまいます。
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