2-2.動物は機械なのか
2-2-1.「考える」事は疑えない
「人間と動物に、一体どういった違いがあるのか」
モンテーニュのこの問いかけは世間に広まりました。もし、人間もまた動物である、という考え方が広まってしまえば、キリスト教の「神は人間を自分と似せて作った」という土台が揺らいでしまいます。デカルトはこの説に危機感を覚え、モンテーニュから広まった人間に対する懐疑を乗り越えようとしました。
懐疑には懐疑を。デカルトが「方法的懐疑」というやり方で自らの哲学を展開したのは、人間への懐疑主義に対抗するためというのが大きな理由です。自ら「あんな事は狂気の沙汰だ」と振り返って自嘲するほどに、デカルトは徹底してあらゆる事を疑いました。
「感覚は誤ることがある」という事は誰でも納得できます。しかしだからといって、「私はパソコンを打っている」とか「パソコンの隣にスマホがある」といった事を疑え、といわれたらどうでしょうか。それらのことまで疑おうとすると、自分の理性が違和感を投げかけてきて懐疑の邪魔をするでしょう。それでもデカルトは疑い続けました。
そのような途方もないことをやっていった結果、デカルトは以下のような気付きを得ます。
「夢の中では、誰でも狂人と変わらない」
夢を見ているとき、「これは夢だ」と思える事は稀ですよね。それがどんな支離滅裂な状況だったとしても、私達は夢の中の出来事を疑わずに感じ取り、怒り、怯え、悲しみ、笑います。
しかしその感じ取った事は、起きて誰かに説明したら支離滅裂な感情で狂気でしかありません。
デカルトは、感覚が時として狂気に通じている事に気付いたのです。つまり私達は正気と狂気の線引きさえできないのに、平気で感覚を真偽の判断基準に使っています。夢の懐疑を通じた反省によって、私たちの真偽の判断の危うさが明らかにされます。
だからこそ狂気を排除して物事を正しく認識するために、修行によって感覚を鍛えよ。そのように仏陀やエピクロスは主張したと考える事もまたできます。
また、デカルトは数学的真理についても疑いました。前回人間が間違いを犯す事は、キリスト教では自分の中に思い描く神が偽物の神である証拠だと考えると解説しました。それを、デカルトが唯一学問の中で論理的であると認めた数学に対しても適応しました。
たとえば2+3=5 というような明白な推理でも、私達に理性を与えた神を騙る悪魔(偶像)が私達を欺いて、そのように推理させているだけなのかもしれない。
ベーコンは私達を欺く偶像を「4つのイドラ」として明らかにし、これらに注意すれば欺かれずにすむと主張しましたが、デカルトに言わせれば、そんな単純なことで間違いを犯すことは回避できない、という事だったのでしょう。ベーコンから見たら、数学的事実を疑うなどという発想自体が意味不明だと思ったはずです。
このように、本人すら「狂気の沙汰」と考えるほどにデカルトは疑いました。その疑いは、「人間に対する疑念」から思索を広げたモンテーニュを超えていたと言えるでしょう。そして、とうとうあの有名な結論に達します。
「私は気づいた、私がこのように、すべてが偽りである、と考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならない」
これこそが「コギト・エルゴ・スム:我、思う、故に我あり」です。そしてこれは、「私は欺かれることを恐れない。何故なら、それは『欺かれる私』が存在する事を意味するからだ」と主張したアウグスティヌスと全く同じ結論でもありました。
2-2-2.動物は自然の中のパーツに過ぎない
デカルトは、この「コギト・エルゴ・スム」から様々な主張を展開するのですが、そのうちの一つに、以下のようなものがあります。
また、若干の古代人が考えたように、我々は動物の言葉が分からないが、動物も話しているのだと考えてはならない。なぜなら、もしそれが真実だとしたら、彼らは我々に対しても自分の同類に対するのと同様に、自分を分からせることができるはずだから。『方法序説』
理性あるいは良識が私どもを人間たらしめるもの、私どもを動物と区別する唯一のものであるかぎりは、それは完全にひとりびとりにそなわると私は考えたい。『方法序説』
自然が動物たちのうちで諸器官の配置にしたがって動いているのだ。たとえば、歯車とゼンマイだけで組み立てられている時計が、われわれが賢慮を尽くしても及ばぬ正確さで、時を数え、時計を計ることができるのは知られていることだ。『方法序説』
前回、良識(ボン=サンス、万人に生まれつき備わっている理性能力)について説明しました。デカルトは、動物には人間のような良識は持っていないと主張します。何故なら、動物には考えるという行為が出来ないからです。もしそのような良識を動物が持っていれば、動物同士理解し合う中で人間のような社会を作り出せるはずです。
それができない以上、動物は人間とあくまでも似ているだけで、人間のような魂は持ち合わせておらず、時計に対する歯車やゼンマイのような、自然における一つのパーツに過ぎないのだ。彼はそう考え、次のように主張しました。
「動物は人間と違い思考力も『不滅の霊魂』も持っていない。何故ならそれらは、自然を成り立たせるためのある種の機械と見なすべきだからだ」
これがデカルトの、アリストテレスの「目的論的自然観」と対になる概念である、「機械論的自然観」です。これは科学の発展に大いに役立つ発想でしたが、一方でヒューマニズムと合わさって「人間は特別な存在である」という意識を高める結果をも招くことになりました。
以前解説した「神が存在するから私が存在するのではない(人間と神の切り離し)」もそうですが、デカルトの主張を拡大解釈したマルブランシュという哲学者が、馬鹿げた主張をしました。何と、いきなり野良犬を蹴り飛ばし、それを咎められると以下のようなことを言いました。
「あれは痛がっているように見えるだけで、本当は痛いなどと感じていない」
頭でしかものを考えない人間がどういう思考をするのか、良い例と言えるでしょう。動物は自然という機械の一部だからそうだと主張したいようです。繰り返しますが、デカルト自身はここまで極端なことは言っていません。しかし、こういった考えを持った人々が当時いたことは事実です。
しかし、やはりこういった極端な例を招きかねない事もあり、モンテーニュが主張した「動物は人間と同じように喜怒哀楽の感情や記憶力及び推論力を持っていて、言葉により意思疎通もしているのではないか」という主張が、
ライプニッツ(「動物は自らの経験に学ぶことで精一杯だが、人間は昔経験したような出来事が起きる原因そのものが変化している可能性や、例外についても考える事ができるのが人間と動物の差である」)、
ルソー(「動物は『精巧な機械』であるが、感覚はもちろん観念すらもっており、 これを組み立てることさえできる。しかし、以下の二点が可能である点で人間は動物と異なる。自由行動が出来る事、環境に応じて、自分の他の能力を発展させることが出来る事、である」)、
ゲーテ(「動物は「精巧な機械」である。しかし、感覚はもちろん観念すらもっており、 これを組み立てることさえできる。動物と人間がちがうのは、扱える量の違いに過ぎない」)、
といった哲学者によって再考されました。
確かに、デカルトの方法的懐疑は徹底していて、それをやりきった彼自身の執念は凄まじいものがあったでしょう。しかし、その方法的懐疑によって得られた結論は、「やはり人間は他の動物よりも優れている」という思考を後押ししてしまいました。ここからさらに人間による自然の征服は進み、オオウミガラスやステラーカイギュウなどの野生動物が絶滅しました。
西洋人による自然の開拓は19世紀頃に自然保護の意識が高まるまで続きました。このように、結果として科学の基礎を作り、人間自身を驕らせる原因を作ったデカルトは「哲学を汚した」等と言った評価を受けることがあります。
如何でしたでしょうか?それでは今回はここで締めさせていただきます。ここまで御拝読いただきまして、誠にありがとうございました。またのご閲覧をお待ちしております。
コメント