雑多記事 8. 西田幾多郎②絶対矛盾的自己同一

 

「教えてくれーーー!!

お れ は だ れ だ !!?」

 

上記の台詞は萬画版『仮面ライダーBrack』の、主人公南光太郎の最後のコマのセリフです。光太郎は悪の秘密結社ゴルゴムに身体改造され、自分自身がもはや普通の人間ではない事に葛藤しながらも、自分が正しいと思っている事のために戦ってきました。しかしその結果、光太郎はその世界の未来を垣間見ます。そこでは自分自身がこの世界を滅ぼし、神として君臨していました。そして現実世界でもゴルゴムとの戦いが激しくなっていき、世界は崩壊に向かいつつありました。この二つの絶望的な状況から、冒頭の台詞に繋がり、物語は幕を閉じます。

 

1.「がある」事の西田幾多郎の解釈

「なぜ私は私なのか」。これは、哲学においてかなり昔から重要なテーマとして取り上げられてきました。デカルトの「我、思う、故に我あり」はその回答の一つと見なせますが、それが絶対的な答えではありません。たとえば、私とは人間のことですので、「では人間とはなにか?」という問いに派生し、これが人間論として研究されたり、もし私が日本人だったら、日本人論に派生しました。そう言った広がりを展開しながら、この問いは多角的に問いかけられてきました。

さらにこの問いは、存在論と深く関わっています。存在には二つの意味があると言われます。すなわち、「~がある」と「~である」です。英語の「be」にこの二つの意味があることは、「存在とは何か」という問いと関わってくる事柄なのです。「である」を本質、「がある」を存在(実存)といい、重要なこととして「『である』事には根拠を見つけることが出来るが、『がある』事には根拠を見つけることが出来ない」と言うことがあります。

「である」事には根拠が見つかります。それは、例えば人間の場合、同じ人間の中から、その人の「である」一つ一つを拾い上げた場合、その「である」に当てはまる人間を見つけることがほぼ出来るからです。人間の中に見つからなければ、動物でも良いですし、何なら生き物でなくても良いです。つまり、何らかの比較対象があれば「である」事柄は吟味することが出来るため、議論になるのです。

しかし、問題は「がある」方です。その人は、その人しかいません。もし、その人の「である」をすべて書き出し、それらを満たす全く同じ存在をつくったとしても、それはその人ではありません。存在の根拠が見つからない、などと説明されますが、もっとわかりやすく言うと、その人本人が「自分が存在する」と認識するための根拠を見つけることが出来ないのです。

人から見たら「あなたは存在しているでしょ?」と思うだけなので、そこに疑問は生じません。しかし、それをその人本人は認識できない。そして認識できないから不安になるワケですね。もしその人が動物だったらこの不安は起きません。そもそも人間以外の動物にはそう言った抽象的な概念を理解する能力に限界があるからです。この不安は、人間である証でもあります。

では、この不安に対処するために人間は何をするのか?人間は本質(「である事」)を後天的に次々と追加していくことが出来ます。「Aさんの子供である事」、「B小学校の生徒である事」、「C部に属している事」、・・・といったことです。「日本人である事」や、「男性である事」、「東京で生まれ育った事」などもそうです。そういった「である事」を積み重ねて自分としていく中で、人は自分は自分である事を理解できます。

しかし、ここで問題があり、「である事」同士がぶつかり合って矛盾し、整合が取れなくなることがあります。冒頭の南光太郎も、「普通の青年である事」から「仮面ライダーである事」、「もはや人間ではない事」という本質を持たされ当惑しますが、それでも「仮面ライダーである事」を生かして戦っていく中で、なんとか自分は自分である事を見出そうとしました。

しかし、ここにさらに「自分はやがて崩壊する世界に住んでいる事」、「そんな世界になった理由は自分だという事」、「今の世界は崩壊に向かい、自分の知人がどんどんいなくなっている事」といった本質が加わっていき、「もはや人間ではないが、それでも仮面ライダーとして正しい事のために戦う」という自我同一性と調和させることが出来ず、自我が崩壊してしまいました。ただ、この場合は光太郎本人ではなく、そのような世界の運命が悪いのではありますが。

 

しかし、この「である」同士の矛盾というのは、現実の世界に生きている私達の中でも起こりえます。会社勤めで結婚されている方は、「会社員である」べきか、「家族である」べきかで悩むことになりますし、昔の友人が何か過ちを犯して助けを求めてきた場合、「昔のまま友である」べきか、「過ちを避けるために法を遵守する人である」べきかで悩みます。これらの積み重ねてきた要素を、人間は統合的に解釈しようとして、それをアイデンティティ(「私がある」事)と思い込む事で安心しようとします。

しかし、私達はその「である」事を次々追加していきます。何故でしょうか?それは、周囲や社会と言った様々な存在と繋がりがあるからです。繋がりの過程で何か「である」必要が生じ、「である」事を積み重ねざるを得ないのです。そして先ほどの光太郎のように、自己矛盾に耐えきれなくなる事は決して珍しくありません。これをどのように解釈すれば良いか?西田幾多郎はそれに対して、絶対矛盾的自己同一という概念を打ち出しました。

西田は、この私(自分自身、自己)とは「場所」であると主張します。自己とは様々な「である」事を次々と追加していく事が出来る。以前解説しましたが、カントが言うところの純粋理性(人間固有の認識形式)やその人の身体的特徴すら、母親の胎内で形作られる際に与えられた「である」事に過ぎません。つまり、変えられるかどうかはともかくとして、自分が今の会社に勤めていることも、自分がどんな身体的な優位性やコンプレックスを持っていることも、西田に言わせれば、全て「場所」に後天的に置かれてきた「である」事に過ぎないのです。

そして、その「場所」である自己を把握する事で、自分自身を受け入れる事が出来る。今ある「である」ことを統合的に解釈してアイデンティティとみなすのではなく、矛盾するものとして解釈することでアイデンティティ(自己同一)を認識する事が出来る、と主張したのです。「である」事一つ一つを受け入れる事を経験と見なすと、まさに以前言った「個人があって経験があるのではなく、経験があって個人がある」と言うことになるワケです。

 

「じゃあどうすればそんな矛盾した解釈が出来るようになるんだ」。皆さんはそのように考えるでしょう。実はその方法こそが、西田幾多郎が推している「禅」なのです。「絶対無」を自覚する過程で自己が「場所」である事を直観出来るというのです。

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