雑多記事 8. 西田幾多郎②絶対矛盾的自己同一

2.現象学と仏教

西田幾多郎は、自信の哲学をハイデガーの現象学を参考にしながら完成させました。現象学は実存主義哲学から派生して生じた学問ですが、この現象学の画期的な成果として、「がある」事を客観的に説明出来たことが上げられます。

「がある」事の根拠がない事、すなわち、存在の根拠が見つからない事が問題になってきたのは先ほど述べたとおりです。西洋哲学では、これを「あるものはある」というパルメニデスの哲学(存在論)からスタートさせ、キリスト教神学と合流することで「この世界のあらゆるものが存在する根拠はキリスト教の神である」という解釈により「がある」事を説明してきました。

しかし、近代に入りカントが「哲学で扱う範囲は人間の理性で捉えられる範囲のみ」と設定した影響で、神や神秘主義的な内容は哲学から排除されてしまったため、今まで後回しにされてきた「がある」問題が浮かび上がってきたのです。そして「実存主義」は、実はこの「がある」問題に答えを出そうとして打ち出された考え方と解釈することもできるのです。

元々は主観というものを客観的に説明するという、それ自体が矛盾するようなことを試みたのが実存主義の始まりでした。自分を絶対視し、自分という存在を明確にすることで、自分自身の言葉で自分を客観的に説明出来るようになる為にはどうすれば良いかに焦点が当たりました。そして自分という存在を明確にするためには、「自由(及び責任)」という概念が不可欠で、自分にとっての「自由」を正しく把握する方法を模索することになります。

 

ニーチェはこの自由と責任に制限を付けず、自分自身の実現のためにはあらゆる自由と責任を背負わなければならないというある種の極論を主張してしまい、その結果自身の精神がその極論に耐えきれませんでした。このニーチェの失敗から反省し、自由とは何なのかが研究され、それは他者や社会との関わりの中で、自分にとっての「自由(及び責任)」は生じてくる、という結論に達したのです。

アリストテレスは、「本質(「である」事)は実存(「がある」事)に先立つ」と主張しました。この世のあらゆる存在は、「あるものはある」である為、かならず本質である形相(エイドス)が存在し、そこに向かって存在していると考えました。それは人間も同じであり、今の言葉で言うと、DNAによって人間がどうあるのかは決まっている、と主張したようなものです。

しかし、実存主義はこの発想を逆転させました。「実存は本質に先立つ」と結論づけたのです。私達人間は、本質を次々追加していくことが出来る、そしてそれは、今正にこの瞬間の自分のあり方によって決まる、そのように主張したのです。この瞬間のあり方、自分がどのように振る舞っているか、どのように他者や社会と繋がっていて、どんな「である」事を優先しているか。これらによって決まるとしたのです。

この瞬間自分がどのように振る舞っているか、どのように他者や社会と繋がっているか、どんな「である」を優先しているか。これらは全てその人の世界で起こっている「現象」です。現象学は文字通り、その人が認識する現象は具体的にどういったものなのかについて掘り下げる学問です。逆に言えば、現象学によってそのひとの「がある」とはどういうことなのかを客観的に説明出来るわけです。

あくまでこの見方は「がある」事の一面的な見方で敷かないことは注意せねば成りません。しかしながら、哲学史が始まって以来の「がある」問題が一つの解決案を導くことが出来たのは大きな成果です。そして東洋思想には一瞬一瞬のあり方に言及する思想があります。それが仏教なのです。

 

仏教、特に日本仏教の禅宗では、一瞬一瞬の自分のあり方を重視します。自我は、自己が今までの自我のあり方と自分の周りで起きている現象の影響を合わせて作り出した「現象(〈事〉)」として捉えることを教えています。仏教が教義として信仰されてきたことが、西洋哲学においてその正統性が示されたわけです。西田幾多郎はその事を現象学から読み取る事が出来たので、西田哲学を打ち出すことが出来たわけです。

 

 

 

 

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