雑多記事2 アウグスティヌスと親鸞

 

親鸞は鎌倉時代に生きた人物です。彼が活躍した鎌倉時代は、鎌倉幕府の中の権力争いに伴い政治が不安定化し、一般民衆が救いを求めた結果日本仏教が更に発展していった時代でした。

「末法思想」というものがあります。これは釈迦の入滅後、500年間は釈迦の教えが正しく守られ、修行によって覚りが得られる正法の時代、更にその後500年間は正法の時代に説かれたものと似た教えが説かれるも覚りを得る事が出来なくなった像法の時代、そして、その後は釈迦の教えは完全に衰え、現世では覚りを得る事が出来ない末法の時代に入る、という思想です。

日本では、藤原氏の勢いが衰え世の中が荒れた平安末期から末法の時代に入ったのではないか、という疑念が広まり、源平合戦を経て鎌倉幕府が開かれるも、源氏の血筋が三代で途絶え政権が安定しなかった事からも、その疑念は確信に変わり、救いはなくなってしまった、という不安が日本中に広まりました。

 

親鸞は4歳の時に父親を、8歳の時に母親を亡くしました。幼少の折に絶対的な存在であるはずの両親を失った親鸞は、深い悲しみと絶望感を実感すると同時に、自分自身の死を強く意識するようになりました。私達も身近な人間が亡くなれば、その死を深く悲しみますが、それと同時に自分もいつか死ぬことを強く意識して自己を振り返るものです。親鸞は、そんな体験を僅か8歳の時に経験したのです。

それから、親鸞は出家し比叡山延暦寺に入り、約20年間修行に打ち込みました。あらゆる厳しい修行を経験し、自身が衆生に救いを与える仏になる事、自身の中に救いを見出す事を目指しました。しかし、比叡山の仏の教えは、親鸞に救いを与えてくれませんでした。

どんなに修行に打ち込んでも、自分自身に救いは訪れない。仏になろうとしても、煩悩が絶えず涌いてきてそれを邪魔をする。親鸞は絶望しました。そして、その絶望から、親鸞は目を背けませんでした。絶望を見て見ぬ振りをして、寺の高僧として生きて行こうと思えばできたのです。同じ立場に立った多くの人間はそうしたでしょう。

しかし、親鸞はそれができなかった。幼い頃の両親との死別が、それによる救いを求める自分自身が、その絶望に向き合うよう駆り立て、目を背けることを許さなかったのです。お釈迦様が説かれた四苦八苦の苦しみと、どこまでも向き合い続けたのです。

やがて親鸞は比叡山を下山しました。ここでは自分は救いを得る事は出来ない。ここでのそれまでの苦労は、自分を仏にしてはくれなかった。常人ならば到底受け入れる事はできない事実を、親鸞は受け入れたのでした。

 

そして京の都で、親鸞は生涯の師となる、浄土宗の法然上人と運命的な出会いを果たします。法然上人の弥陀の本願の教えを聞く中で、親鸞は大きな気付きを得ます。

今まで親鸞自身は自分は仏になれないと思い込んでいました。その理由は、自分自身は衆生に救いを与えられうる存在であることを信じる事がどうしても出来なかったから、煩悩まみれである自分はそのような存在であるわけがないと信じて疑わなかったからでした。

しかし、覚りに至った仏の中に、阿弥陀如来という仏がいることを法然が説きました。弥陀は修行の末に如来(覚りの段階である全部で五十一段及びその更に一段上の仏覚又は無上覚の内、如来はその仏覚の事を指す)となり、阿弥陀仏として衆生を救うことを決意しました。

阿弥陀仏が他の仏と違っていたのは、救いを与える衆生に一切の条件を付けなかった事です。仏像を作ったから救うとか、その仏像を日々拝んでいるから救うとか、そう言った事をしないような人を含むこの世の一切の存在を仏として救うと決意した(弥陀の本願)というのです。

親鸞はこの教えに衝撃を受けました。自分には救いがなかったのではない。既に阿弥陀如来により救いが与えられており、その救いに自分が気付かなかっただけだったのだ。長い期間、救いを得られない事煩悩まみれである事を自分事として捉え、苦しみ続けた親鸞だからこそ、法然上人の教えに確信を持つ事が出来たのです。

そして自分自身は仏にはなれないが、法然上人の元でその手足となり、弥陀の本願を説法することで衆生を救うことが出来る事を直観したのです(親鸞自身はこの事を「信心決定(しんじんけつじょう)」と呼んでいます)。誰よりも自分自身が煩悩まみれである事を自覚し、それでも仏の修行を続けてきたからこそ、自分こそが煩悩まみれである衆生にそれを自覚させ、弥陀の本願の教えを説くことが出来ると考えたのです。

そこから法然上人の元で教えを得た親鸞は教えを説き、既存の仏教との確執、鎌倉幕府からの冤罪による流刑、法然上人との死別など、様々な事を経験しながらも、弥陀の本願を説き続け、浄土真宗の開祖となり親鸞聖人と呼ばれるようになったのです。

親鸞聖人もまた救いを得られない苦しみを自分事として捉えていました。これもまた自我を絶対視していたと捉えられます。仏教において自我は実体として捉えませんが、それは自我を完全に否定している事を意味しません。自我は存在しているとも言えるし、存在していないともいえる。自我を実体として捉えない、というのは、自我が存在する根拠となるような存在は何処にもないことを意味し、それを「空」と呼びました。

つまり、仏教では自我があるものだと見なすことも許されるのです。

だからこそ仏教は自我の絶対視から出発する実存主義の発想とも矛盾しないのです。実存主義哲学の発展に大きな貢献をしたマルティン・ハイデガーは、晩年親鸞聖人の浄土真宗の教えに傾倒し、「なぜ多くの日本人は親鸞聖人の教えの中に救いを見出そうとせずに、西洋化の中に希望を見出そうとして躍起になっているのだ」と嘆いたと言います。

ハイデガーは自身の哲学の中でこのようなことを言っています。

「人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣えない。死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つけて生きる生き方に繋がる」

良心を死をキッカケにして幼い頃から死を意識していた親鸞聖人だからこそ、弥陀の本願に自身の救いを直観し、その教えを広める事に人生を賭ける決意が出来た、と実存主義哲学の観点からも説明出来るのです。

 

如何でしたでしょうか?自分の至らなさ、自分がどんな存在なのか、自分にとっての救いは何か。これらの疑問は哲学の中でも、それに先立つ宗教の中でも何百年も前から天才と呼ばれた人々がその人生を賭けて議論してきたのです。この中に、私達自身の救いを見出すヒントが必ず見つかると、私は信じている所存です。それが私自身の「信心決定」だと思っています。

 

知解するために、私は信じる。アウグスティヌス:
知解とは、アウグスティヌスが人間の精神(アウグスティヌス自身は魂だと思っていた)の中にある三つの機能の内の一つで、特に神や目に見えないモノに対する理解のことを指します。そしてこの名言は、もし神を、あるいは自身が知りたいと思うものを理解したいのであれば、さきにそれを信じることがなければならない、と言うことを意味しています。その信仰が深ければ深いほど、人間の理性では到達できない深い理解を得る事が出来る、というのです。何か知りたいことがあるならば、先ず自分がその事を誰よりも信じることから始めなさい。頭からその事を批判する態度では、深い理解は得られません。この短い言葉には、アウグスティヌスのそのような信念が籠もっています。

 

一人いて悲しいときは二人いると思え、二人いて悲しいときは三人いると思え、そのうちの一人は親鸞なり。親鸞『御臨末の御書』:
親鸞聖人の遺言である『御臨末の御書』の中の言葉。どんなに孤独を感じているときもあなたは一人ではない。その孤独に苦しんでいる人は必ずどこかにいる。もしあなたがそんな人を誰一人見出す事が出来なかったとしても、この親鸞があなたの孤独に寄り添います。そんな親鸞聖人の慈悲が現れた言葉です。

 

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