そもそも「無」とは何なのでしょうか?西洋において、キリスト教最大の教父と呼ばれたアウグスティヌスはこのような表現をしています。
「神によって存在をあたえらえた万物は、時の流れの中で、その善を奪われながら滅びていくのです。そして、すべての善を奪われたとき、完全に滅び去って無になります」
キリスト教において、神はあらゆるものが存在する根拠であり、この世界は神によって何も無い状態から作り出されました。そしてこの世界の存在は神が作った者である以上、善なる要素を宿した存在です。その善なる要素が全て亡くなったら魂さえなくなって無になる、とアウグスティヌスは考えたわけです。
この事から分かるように、アウグスティヌスは「無」に対して否定的な見方をしており、それがキリスト教神学及び西洋哲学にも反映されました。そして、現代科学によって成り立っている今の社会でも、「無」は否定的なニュアンスがある事が多いです。
しかし、東洋思想の中では必ずしもそうではありませんでした。
まず仏教では存在の根拠は神ではなく「空」である、とされます。仏教は自我に実体がないことを覚った釈迦から始まりました。自分自身がそうである以上、その自分が認識するこの世界にも存在する絶対的な根拠はなく、だからといってないとも断言できず、全ては自分自身の認識によると考えられます。あるともいえず、ないともいえない。この事を「空」と呼んだわけです。
つまり仏教では「ある」と「ない」はその人の認識次第であり、絶対的な無という発想自体がありません。
さらに、そんな仏教と結びついた老荘思想は、「無為自然」を根幹の思想としています。「無為」とは「人為」の対になる言葉であり、「人の手を加えていない」というニュアンスがあります。元々老荘思想は理想社会の実現のためには個人は押さえ込むべきだと考える儒教への反発で生まれました。この「人為」は個人を押さえ込む力、と解釈することもできるのです。
無為自然は「人の手を加えていない自然な状態こそが最も善い」といったニュアンスがあります。人為の煩わしさから解放された、「有」の束縛(「こう在るべき」という理想の押しつけ)から解放されたある種の理想的な状態というニュアンスが「無」にはあったのです。
そして、これら「空」の思想と老荘思想が調和し合った結果生まれたのが、「無」の思想なのです。
「無」という発想は深化していきました。私達の自我意識は、無から生じました。私達自身の身体的特徴も、カントが言う所の純粋理性も、私達が形作られる過程で与えられた、後天的な要素でしかありません。その要素を与えられる以前の私達の意識は、無から生じたのです。この考え方は、「あるものはあり、ないものはない」から始まる西洋哲学とは決定的に矛盾する発想です。
私達が生まれた「無」という事象を自覚する事。それこそがお釈迦様が言った覚りであり、「無」の中では時間と空間が混ざり合い、自分と他者の区別もなくなり、さらにこの世界と自分自身との違いも無くなります。それが「無」の思想です。
そして、この「無」に到達する為の方法を模索する過程で成立した宗派が禅宗なのです。「禅」という具体的な修行方法によって「無」の自覚を目指します。中華で成立した禅宗は、密教や浄土教などと共に日本に伝わりました。そして、西田幾多郎はそんな禅宗に若い頃から傾倒していました。また、後に世界に日本の禅を伝える事になる禅の天才鈴木大拙が西田の親友だったことも、西田の禅の理解を深めるのに役立ちました。
西田は覚りを目指す人が目指す「無」の事を、「絶対無」と呼び、その「絶対無」を直観する経験を「純粋経験」と呼んだのです。
先ほどの説明通り、カントの純粋理性も後天的な要素に過ぎません。「絶対無」を直観する事で、純粋理性を会得する前の、私達の意識が無から離れた瞬間がどういうものだったのかを経験する事で覚りに至るのだ。西田はそのように主張したのです。
ヒュームは「経験は理性に先立つ」と主張しました。それに対してカントは純粋理性という概念を打ち出し、「純粋理性は経験に先立つ」と主張したわけです。では、西田の「純粋経験」とは何か?「純粋経験は純粋理性に先立つ」と主張したいのでしょうか?結論としては、その言い方も間違ってはいません。しかし、ただ強調すべき事として、西田はカントを全否定したかったわけではない、と言うことです。
「個人があって経験があるのではなく、経験があって個人がある」
西田はこう言いました。私達が無から一人の意識として離れる事を純粋経験と呼んだのは、それが私達が一番初めにする経験だからです。その後で、純粋理性を与えられる、身体的特徴を与えられる、といった経験をします。
しかし、それはカントが間違っていると言いたいのではなく、カントの純粋理性という発想すら、「絶対無」を直観する為の要素として扱っているわけです。カントは西洋哲学の中で、哲学の範囲は人間の理性で捉えられる範囲に限る事を主張し、近世哲学にあった「神」や超常現象といった要素を哲学から閉め出してしまいました。理性で捉えられない以上、それらを経験する事は出来ないからです。
理性が無ければ経験は出来ない。カントのこの発想に対して、西田は反駁したのです。「個人(の理性)があるから経験があるのでなく、理性に先立つ経験が存在する。その証拠がお釈迦様であり、今まで覚りに至った人たちである」。これが西田が主張したかったことです。
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