これは私達誰しもが人生において経験することです。そして、この事は哲学の中でも大きなテーマとして研究されてきました。この哲学の歴史の中で、このテーマと深く関わった人物が二人います。それが今回取り上げる偉人である、アウグスティヌスと親鸞です。
アウグスティヌスは、キリスト教において最大の教父と称される人物です。教父というのはカトリック教会における民衆に教えを与える聖職者を指します。後の時代に起こったカトリックの対抗勢力であるプロテスタントでは、この立ち位置の人物のことを神父と呼び区別されましたが、日本では一緒くたにしてキリスト教会の聖職者は神父だ、と見なされています。
アウグスティヌスが活躍した時代の西洋は、古代ローマ世界から中世世界への移行期でした。かつてローマ帝国の力により西洋世界は安定的な平和を実現していました(パックス・ロマーナ)が、様々な要因でローマ帝国の力は衰えていきます。それを何とか食い止めようとしたローマ帝国の指導層は、当時まだ新興勢力ながら絶大な勢力を誇っていた、キリスト教を国教とする政策を打ち出しました。
しかし、それでもローマ帝国の衰退は止まらず、さらに首都ローマからみて西側(現在でいうとイギリスやフランスを中心とした地域)で、異民族がローマ帝国の領地を脅かしていたことも衰退に拍車をかけました。
そこで、当時のローマ皇帝は、東西で帝国を分割する勅令を出しました。さらにそれに伴い、国教であるキリスト教教会もまた東と西に配置することとなりました。アウグスティヌスは、そんな政策が進められていた時代に、キリスト教教会と関わる形で活躍したのです。
実は、アウグスティヌスは始めからキリスト教を信仰していたわけではありませんでした。若い頃から学問に興味を持ち、真理を追い求めていた青年でした。ギリシアやローマの哲学者達と何ら変わらない人物だったのです。しかしながら、彼は既存の哲学者と変わった点があり、それが真理を追い求める傍ら、自分の至らなさにも同時に想いを巡らせていた、という事です。それまでもそういう哲学者はいなかったわけではありませんが、アウグスティヌスはその葛藤から自身の哲学を展開した結果、歴史、特にキリスト教という大きな歴史の流れに名を残す巨大な功績を残すことになりました。
若い頃のアウグスティヌスは欲望に突き動かされ、刹那的な快楽を求めて生きていました。しかしそれだけではなく、そう言った自分も冷静に観察し、その行動一つ一つを振り返っては後悔する日々を送っていました。恐らくですが、哲学に興味を持ち、真理を知りたいという欲望も持ち合わせていた結果、そこで培った鋭い目を自分自身にも向けていたのでしょう。自分は比較的恵まれた環境にあった一方で、多くの人々が社会の混乱の中で苦しんでいたことも影響していたでしょう。
そんな至らない自分を意識したアウグスティヌスは、宗教に救いを求めました。彼は始めマニ教を信仰しました。しかし、マニ教で説かれる神と真理は、アウグスティヌスを救ってくれませんでした。彼はその事に失望し憤慨しながらも、それでも自分自身の至らなさと向き合い続けました。
そんな中で、アウグスティヌスは一つの哲学者の思想に出会います。『一者』思想を説いたプロティノスです。プロティノスは西洋哲学史から見たときに、以下のような重要な主張をしました。
「真理に至る(『一者』に還る)為には、哲学だけでは足りない」
プロティノスが活躍した時代はキリスト教の更に黎明期、ローマ帝国の隣国であるペルシア帝国で、宗教哲学が盛んに議論されていました。彼はエジプトで生まれ育ったローマ人でしたが、ローマのペルシア遠征に徴兵され、その際にペルシア哲学に触れ、その結果哲学を志すようになりました。
ペルシア帝国では、ゾロアスター教が国教になっていました。この時代において、この宗教は既に1000年以上の歴史があり、非常に権威のある教えでした。それだけでなく、当時のペルシアにはインドから「梵我一如」を唱えるバラモン教や、キリスト教の前身であるユダヤ教、さらにバラモン教の教義に反発する形で生まれた仏教の分派であり、のちに大乗仏教とよばれる仏教の分派の、それぞれの教えがこの大国に集まり、議論が展開されていました。
プロティノスが注目したのは、インド哲学の「梵我一如」という思想です。あらゆる存在で構成されているこの世界には、その原理である梵(ブラフマン、大我)なるものがあり、その原理の中でうまれた人間にも、一人一人が自分が自分である原理の我(アートマン、小我)がある。そして、ブラフマンとアートマンは本来同一の存在であり、それを苦行を重ねる事で自覚する事で、歓喜の世界に至る。「梵我一如」を要約すると、そのようになります。
プロティノスはこの思想を当時の西洋哲学の中にあったイデア論と組み合わせ、梵に当たる世界の原理とイデア論における「善のイデア」と組み合わせ、『一者(ト・ヘン)』という発想を打ち出しました。そして、哲学すると言うことは『一者』に還っていく事を意味すると主張し、だが理性を追究するだけでは『一者』に到達できない事を論理的に説明し、イデア論に反駁したのです。
アウグスティヌスはこの『一者』思想に自分が求めていたものを直観しました。さらに、彼はもう一つの重大な存在と出会うことになります。それがキリスト教だったのです。
アウグスティヌスは『一者』思想を新約聖書の教えに当てはめていく中で自身の信仰を完成させていきます。そしてキリスト教の教父となり、今度は信者達一人一人と向き合う中で、自身の信仰哲学を更に研ぎ澄ませていくことになります。
アウグスティヌスの言葉の中に、このようなものがあります。
「私は欺かれることを恐れない。なぜなら、それは『欺かれる私』が存在する事を意味するからだ」
アウグスティヌスは自分自身の至らなさから目を背けずに向き合い続けました。何らかの絶対的な存在を信仰したり、哲学の真理を追究することで、自分から目を背けることをしなかったのです。その結果、様々な「偶像」に欺かれ、深く傷つきましたが、それでも「その深く傷ついた自分こそが本当の自分なのだ」と強く信じるようになりました。
自分と向き合い続ける事は、自分という存在を絶対視することをも意味します。これは後の時代に西洋哲学史の中で起こった、自分自身(現実存在)を起点として考える、実存主義哲学に通じる面があります。
実存主義哲学には「有神論的実存主義」と「無神論的実存主義」に別れ、実存主義者として有名なニーチェは、無神論的実存主義者です(「神は死んだ」で有名ですね)。しかし、実存主義には自分を絶対としながらも、有限な自分自身を絶対的な存在と見なせるのは、神という絶対者によってなのだ、という信仰と結びついた、「有神論的実存主義」というものもあります。この代表者はキェルケゴールであり、彼は「本来の教会の役割であるはずの民衆に救いを与える使命を教会は果たしていない」と教会の腐敗を厳しく糾弾しました。
アウグスティヌスの話に戻ると、彼は自分を絶対視する事により、その自分の心を細かく分析する事が出来たのです。その結果、人間の心には3つの要素(「記憶」、「知解」、「意志」)があり、そのように人の心を神が作ったのは、神自身に3つの側面(ペルソナ)がある事を意味する、という主張を展開しました。それが後の「三位一体説」に繋がり、イエスが主張した「不変の愛(アガペー)」の論理的な説明を可能にした事で、キリスト教神学を大きく発展させました。
この「三位一体説」に至ったアウグスティヌスは、その当時論争が起こっていたカトリック教会の総本山に赴き、他の教父達と論戦を繰り広げました。その結果教父達の主張をまとめ上げ、カトリック分裂の危機を防いだことにより、彼は聖人としてあがめられることになったのです。
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