雑多記事6.仏教と実存主義②実存主義の歴史と仏教との比較

 

実存主義哲学はなぜ今注目されているのでしょうか?理由としては現代社会が人間に機械になるように求めている事が大きいかも知れません。他者への配慮を機械的にこなすことを要求され、それができなければ弾かれてしまう。そんな不安の中で他人に配慮していたら、自分自身を見失ってしまうのも無理はない話です。

実存主義哲学は『自我を絶対視する』所から始まります。自分自身をよく観察することで、本当は自分は何がしたいのか?何か気が付いていない自分がいるのではないか?そういった問いを追求することが推奨されます。仕事に追われて自分を殺している人たちには、非常に聞こえが良い、救いがありそうな考え方です。

しかし、今の世の中では『自分を絶対視する』事は否定的に見られます。他者への配慮を第一に求められ、そのような態度は自分勝手と見なされ距離を置かれてしまいます。現在の日本社会の状況をみれば、さもありなん、とも思いますが、その結果自分探し的な動きには冷ややかな視線を向けられます。特に仕事が出来ない人がこれをやると、激しく非難されます。

実存主義哲学者の一人であるニーチェも、そんな生きづらい世の中を生きてきた人でした。

 

フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェは、若い頃から自分自身がどんな存在なのか分からず、それに納得出来ずに周囲と衝突しながら苦しみました。その結果、ニーチェは誰からも理解されない孤独に苦しむ事になります。

しかし、ニーチェは苦しむだけではなく、その苦しみを哲学的に分析し始めたのです。何故自分は苦しいのか。自分の苦しみと向き合い続ける事は、自分を絶対視する事に他なりません。人がそう感じるから自分もそう感じるのではなく、自分はどう感じるのか、そしてそれは何故なのか。ニーチェはそれを一つ一つ掘り下げていきました。

その中で、なぜ自分は孤独なことにこれほど苦しんでいるのか、と考えるようになります。自分が回りのみんなと同じように振る舞わないから孤立していることはニーチェ自身分かっていました。しかし、その納得しきっているはずの孤独に、自分は必要以上に苦しんでいる。そのようにニーチェ自身は感じるようになりました。

そんな自分自身に納得出来ない思いを抱えていたとき、ニーチェはある哲学者が書いた本に出会います。哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『意志と表象の世界』です。ショーペンハウアーは西洋哲学史上始めて、東洋思想を西洋哲学に組み込もうとした哲学者です。カントの現象界とモノ自体の世界の二元論を参考に書かれており、ニーチェもカントは呼んでいたのですぐ内容が頭に入ってきました。

しかし、そこにはニーチェにとって衝撃的なことが書かれていました。「この世界は苦しみで出来ている」。世界には苦しみで溢れているどころの話ではなりません、この世界は苦しみによって構成されている、と書かれていたのです。そしてこう続きます。「この世界はその苦しみにより、そこに存在している者に本来の自分がどういった存在なのかを気付かせようとするメカニズムが働いている」。

このとき、ニーチェは閃きました。今自分が感いている孤独も、それによって生じる苦しみも、全ては本当の自分自身を見つけ出すための必要な要素だったのだ、と。苦しめば苦しむほど、自分自身がどんな存在なのか、よりハッキリ理解できることは彼自身実感としてありました。それがこのショーペンハウアーの本により確信へと変わったのです。今までの必要以上の苦しみは、自分自身を把握するためにあったのだ、と。

苦しみの中から本当の自分の要素を見つけ出し、今以上の自分を常に目指していくという力強い姿勢。そんな人物を目指そうとする考え方を、ニーチェは『超人思想』と呼びました。そして、自分自身を見出す為には他者や社会の価値観に囚われ過ぎずに、とにかく自分自身を理解することにこだわれ、と主張したのです。

 

ニーチェの実存主義が以前紹介したキェルケゴールの実存主義と違う点として、神ではなく自分自身の理想の姿である『超人』を設定したことです。なので、ニーチェの実存主義では自分の事を「自分自身が夢見る『超人』に向かって進む人間」と認識する事になります。

冒頭で言ったとおり、実存主義的な考え方は反発を受けやすいですが、これは「自由と責任」の捉え方に問題があるからです。ニーチェ自身、自分自身を見出す為には他者や社会との衝突を恐れるな、と主張しましたが、それと同時に、その衝突の責任から目を背けずに背負い込め、とも語っています。

人一倍自分に対する不自由さに苦しんだニーチェは、自由には責任が伴う事を誰よりも理解していました。ニーチェの自由と責任に対する認識を掘り下げていくと、今で言う「自己責任論」に近いかも知れません。自由に伴う責任について、ニーチェはそれほどまでにストイックな認識をしていました。

しかし、たいていの人は「自由と責任」について正しい捉え方が出来ていません。なので、理想と現実のギャップが受け止めきれず爆発してしまい、結果として「自分勝手」、「エゴイスト」という評価を受ける事の方が多いのです。また、この『超人思想』は他者との衝突を恐れないため、弱肉強食のような極論にもなりやすいです。事実としてニーチェの死後、『超人思想』はナチスのプロパガンダに利用されることになります。

そしてニーチェ自身がこの『超人思想』という突き詰めた「自己責任論」に耐えることが出来なくなり、ある時発狂してしまいます(持病の梅毒が脳に回った事が直接的な原因だ、という説もあります)。彼の劇的な哲学及びその最後は、「自分を絶対視する」ことについての様々な疑問を投げかける結果になりました。

 

ニーチェの死後、実存主義哲学はジャン・ポール・サルトルによって引き継がれました。ニーチェが成功しなかった理由として、自分が行動する事によって周囲や社会がどんな反応をするのかを正確に把握していなかった(あるいは軽視していた)事が挙げられます。暗い夜道を歩くときは、必ず足下を注意深く見ながら進みます。それと同じで、十分な自由を確保するためには、他者や社会とはどういう存在なのかをしっかり理解する必要があります。サルトルはその事を熟知していました。

「他人の眼差しによって我々は存在する」

サルトルはこのように主張しました。これは、他者への配慮と責任感なしに自由を追求しても、それは真の自由や自己実現には繋がらない、と言うことを言っています。

そもそも個人の行動は孤立したものではなく、他者や社会との相互作用により意味を獲得していきます。言い方を変えると、他者や社会は自分を妨害するだけの存在ではなく、自分を助けてくれるような側面が必ず存在し、そこに気付くかどうかなのです。そういった関係性のなかで、一度は自分を絶対視する事により定めた自己を、その都度定義し直していく。実存主義哲学の実践には、そのような慎重さが求められます。

そう言った他者や社会の制約の中で、時には譲歩し時には助け合いながら自分自身を創っていくことになります。人間は自分で創り出した自由の中で自分自身を創っていく存在である。サルトルはこの事実を「実存は本質に先立つ」という有名な言葉で表現しました。人間はDNAなどで自分がどういう存在なのかは決まっておらず、それは自分自身で決めていくしかないのです。

 

実存主義哲学を組み直したサルトルは、それを社会学に適応しようとします。かつて哲学が生じた古代ギリシアにおいて、「人間とは何か(哲学)」→「人間が善く生きるにはどうすべきか(倫理学)」→「善く生きる人間を増やすにはどんな政治をすべきか(政治学又は社会学)」という流れをプラトンとアリストテレスが創りました。それ以降の哲学史では、哲学者が持論を政治学や社会学に適用しようとする動きは度々起きていました。

ニーチェにとって他者はあくまで他者であり、社会は他者の集団としか見なしていなかったため、持論を社会学に組み込もうとはしませんでしたが、サルトルはこれを試みました。しかし、ここで実存主義哲学の問題点が出てきます。

元々実存主義は「自分自身を絶対視する」事からスタートします。それを他者や社会と調節しながら柔軟にかえていくにしても、その人の主観的な体験と自由意志が核になっている事実は変わりませんでした。個人個人の認識に大きく依存しているため、社会にとっての普遍的な概念を共有することにはとことん不向きだったのです。実存主義の自由を強調する姿勢が、社会学の決定論的な要素と相性がよくありませんでした。

やがて、言語学の転回に伴って誕生した構造主義哲学が出てくることになります。言語学において、人間が言葉を創ってきたのではなく、既存の言葉によってその言葉を使う人間がどんな存在なのかが規定される、という発想の転換が起こりました。言語の構造によってその言語を使っている人々や国にアプローチをかける考え方を構造主義といい、それを哲学に応用したのが構造主義哲学です(注目する構造は言語だけとは限りません)。

サルトルの「存在は本質に先立つ」に対し、構造主義者は「本質が存在を先行する、なぜなら構造が個人の行為を規定するからだ」と主張しました。社会には構造がある以上完全な自由はあり得ず、総計的に見るとかならずある程度の人間が収まる枠を発見できる。その枠に基づけば社会に関する議論は可能だ、というのです。構造主義哲学は社会学と適合し、現在でも社会学の有効な分析手段となっています。

 

社会学に適応できなかった実存主義哲学ですが、心理学や文学など、個人に注目するような様々な学問や文化に応用されていきました。中でも日本の漫画やアニメと言ったサブカルチャーにはどこかしらに実存主義の影響があります。古くは手塚治虫に始まり、大江健三郎や村上春樹の小説、浦沢直樹の『MONSTER』、吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』など、個人の選択や責任、存在の意味を問う作品は多いです。

特に心理学の中でも、人間性心理学から発展したポジティブ心理学において、実存主義を補完するような研究成果が出つつあります。ポジティブ心理学は1998年にマーティン・セリグマン氏によって開かれた、かなり新しい学問です。個人の強みや美徳、幸福の科学的研究に焦点を当て、その研究には統計学や実証的な調査を伴います。

実存主義哲学では「絶対的な自我」から出発し、「そこからどうあるべきか」を様々な角度から問い続けます。他方、ポジティブ心理学では「では、その状態にどうすれば達することができるのか」を統計学や実証的な調査を用いて追究します。その状態に達するための具体的な行動のガイドライン。つまり『習慣と実践』を導き出すことができるのです。

例えば、「行動変容」という概念が両者にはあります。実存主義においては個人の選択と責任によってそれ(続けるかやめるか)は決めなければならないとされる一方で、ポジティブ心理学では続ける事、やめる事によってそれぞれどんな効果があるのかを具体的な行動科学の観点(例えば習慣形成や目標達成の効果的な方法を統計的に検証するなど)から分析する、といったことも可能なのです。

 

実存主義哲学は西洋哲学の伝統に基づき、徹底した理性主義による自分自身に対する分析によって積み重ねられた『理論』が強みですが、それを具体的に実行するための『習慣と実践』という観点に欠けていました。しかし、この『理論』と『習慣と実践』を併せ持つ、実存主義哲学と同じ方向性を持ったものがあります。それこそが紀元前5世紀から続く長い長い歴史を持った宗教である仏教です。仏教における『習慣と実践』について詳しく見ていきたいとおもいます。

 

仏教(特に大乗仏教)の至上命題として「衆生の救済」があります。そして、そのためには『論理』だけでなく、仏僧のように修行していない衆生一人一人の不幸や過酷な労働を、仏教修行に還元するための方法論が求められました。『習慣と実践』は、この事と深く関わってきます。

仏教の『習慣と実践』において、私達になじみ深いものとして「座禅」があります。ストレス管理、注意力と集中力の向上、想像力の促進など、様々なポジティブな影響が期待でき、マインドフルネスという概念でポジティブ心理学でも研究が進んでいます。しかし注意したいのは、それらは副次的な効果でしかなく、本来の座禅の目的は「自我と自己の区別」だということです。

自我は本来、自己が外部の現象に反応することで生じている〈事〉であり、実体のある存在ではありません。禅宗の最も基礎となる教えは「無」の自覚です。自我を通して自己がどのような存在なのかを正しく認識し、そして自己を自我共々現象として認識することで自我も自己も消えていきます。その中で自分はこの世界と一体であった事を直観するのです。これが禅宗の解釈に基づく「覚り」です。その最終目標のために、禅宗では「禅」という修行法が開発され、長い歴史の中で研究されてきました。

 

また、浄土宗には「観想」という修行があります。これは座禅と似ていますが、目的は自己発見ではありません。これはこの世界の全てを救う仏である阿弥陀如来と死後に訪れる極楽浄土を強く心に描く修行です。これを繰り返すことにより、「浄土への往生を信じる心」を強めていくのです。

ちなみに、「観想」と言う言葉には違う意味があります。明治時代、日本に西洋哲学が入ってきたときにアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の中の概念を翻訳する際に、「テオーリア:自身に対して論理的に考える」という概念が浄土宗の「観想」に似ていたため、この訳語を当てられました。

海外の仏教の宗派の中に「慈悲の瞑想(メッタ瞑想)」があります。日本仏教には余りなじみがありませんが、これは他者や自己に対する無条件の愛と慈しみの心を育てるために、自分の心から怒りや怨みを取り除き、全ての存在が幸せである事を願う修行です(自分ではなく他者を意識して瞑想をしている点で浄土宗の「観想」と似ているといえます)。これらが座禅と明確に異なるのは、他者との繋がりを意識した修行である、ということです。座禅は他者との繋がりは「無」の自覚の結果もたらされますが、こちらはより直接的に他者へと意識を向け、他者との繋がりを意識します(また、一人ではなく誰かと一緒にやるとより効果的です)。

「観想」も阿弥陀如来という一種の絶対的な存在を意識した修行ではありますが、メッタ瞑想と似た要素を見出す事が出来ます。阿弥陀如来や極楽浄土をイメージする行為は、メッタ瞑想で愛や慈悲のイメージを強める事と似ています。また、観想によって修行者が喜び、感謝、慈悲といったポジティブな感情を持つようになった事が浄土宗の文献の中に残っており、メッカ瞑想の効果と重なります。こういった共通点から、浄土宗がどんな宗派なのかを把握する手がかりになるでしょう。

 

さらに仏教の教えの一つに「身心一如」というものがあります。これは、食事や仕事、清掃といった日常の活動も仏教修行と見なすことが出来る、と言う教えです。その中で生じた苦しみに向き合う際に仏教の教えを思い起こすことが出来、集中力と心の統一である「等持」の実践にもなると考えられました。

「等持」とは、本来集中しているとき人は無心ですが、集中力が向いている方向に心の方向を意識的に向ける修行のことです。これにより、集中力はさらに深化し、心には統一感、静寂、清浄さがもたらされ、雑念から心が解放される事になります。さらに、その集中力を向けている対象に対する洞察力が増し、その対象の無常性、如何なる苦しみによって成り立っていくかを心で感じ取る事が出来、「無明」を晴らす「智慧」をもたらします。さらに、集中力と心の統一が進むと、その事が自己に影響を与え、道徳的で利他的な行動が自然に増え、逆に自分を乱す煩悩が自然と生じにくくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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