デカルトは近世において、哲学の分野で大きな影響を与えた事を何度も解説してきました。「我、思う、故に我あり」によって、主客分離、心身分離、時間の絶対視という革新的な視点をもたらしました。しかしその中で、デカルトは奇妙な説を唱えました。
「この世界は神によって瞬間瞬間創造されている」
つまり、私達が認識しているこの世界は連続しているように感じますが、それは私達がそのように誤認しているだけであり、実際は神が瞬間瞬間に崩壊しているこの世界をその都度造り出しているのである、という話です。これを『連続創造説』といいます。
「そんな馬鹿な」と思われると思いますが、「そもそも何でデカルトはそんな珍妙なことを言い出したんだ?」と思われる方も多いと思います。それは、デカルトが主張した時間と空間の絶対視が関わってきます。
デカルトは最初の著作である『方法序論』において時間と空間を絶対視したのですが、後の著作である『省察』において、「物質自体には持続して存在するような本質を持っておらず、それでも私達がものは持続して存在していると認識できるのは、神が瞬間瞬間にそのものを『創造』しているからであり、それを持続していると錯覚しているだけである」と主張しました。私達が絶対だと思っている時間と空間は、神から見たら相対的なものでしかない可能性がある、そのように主張したのです。
デカルトの出発点は「我、思う、我あり」、つまり「私がある事以外のあらゆる事は確実なものはない」という懐疑論です。デカルトは人々が当たり前だと思った事に対して徹底的に疑いましたが、その幾つかの疑いを解決する手段として神を持ち出すというこれまたユニークな考え方をしました。そして、当時の人々はキリスト教の影響で神が存在する事を当然と思っていた為、デカルトのこの一見論理的に見える説明に納得したのです。他方、現代の私達から見たら、『方法序論』である程度完璧な論理を構成出来たのに、底に神を無理にねじ込んで懐疑論を主張したせいで妙な形に見えるのです。
「ものが持続して存在する」事に対して、「そのものが持続して存在する性質があるという証拠はない」と疑ったのです。「あるものはある」から始まり、「ものが存在する根拠は神である」という大前提の元では、「神がいることによりものは持続して存在できる」という考え方は非常に論理的で腑に落ちる考え方でした。良くこんな事を思いついたものです。
そして、神から見たら時間も空間も相対的なものであるため、物質の連続性と同様に時間の連続性も疑わしい、と考え、それを反映した説が『連続創造説』というわけです(ちなみに、このデカルトの時間と空間の捉え方を更に推し進めたのがアイザック・ニュートンであり、「時間も空間も私達の認識とも神とも関係なく存在する」と主張し、経験論及び唯物論を推し進めました)。
しかし、デカルトのこの考え方の奇怪な点に気付いた人がいました。それがパスカルの定理で有名なデカルトと同時代の哲学者ブレーズ・パスカルです。
パスカルは幼少の頃から学問を多方面的に学んだ天才でした。加えて、パスカルは聖職者の家系であり、彼自身も熱心な信仰者でした。また、パスカルの姪が不治の病と言われていた状態から神秘体験により完治した事を目撃しており、そのことでより一層信仰心を高めました。そんなパスカルから見たら、デカルトの論理は「神を持論の都合の良いように便利使いしている」という許しがたいものでした。
神が存在するから人は理性を働かせ知識を得る事が出来る。これはデカルトとパスカルで共通していました。しかしパスカルは『方法序論』(科学的・数学的思考を神の存在から独立させようとしている)と『省察』(神を知識の根拠としている)で違う主張をしている事を見抜き、「二枚舌だ」と批判しました。以前触れましたが、デカルトは自身の落ち着いた研究環境のために、自身が属するカトリックだけでなく敵対勢力のプロテスタントにも気を配っていたため、両者の顔を立てて曖昧な態度を取っていました(それを哲学の文脈の中で論理的に表現するのも凄いですが)。
さらにパスカルは「デカルトの主張は理性に依存しすぎている」とも指摘し、人間性や信仰の重要性を強調し、人間が世界を捉える手段は理性以外にも心があると主張しました。科学と非科学の領域に分かれていると現在考えられているのと同じように、デカルトの理性と懐疑で把握できる世界では説明出来ないような心や信仰の世界がある、言い換えるとデカルトは物質と精神の世界があると主張しましたが、彼自身が把握する精神の世界よりも実際の精神の世界は遙かに広い、とパスカルは主張したのです。
そして、デカルトの時間の捉え方も「人間の経験やそれに基づく直観を無視している」と批判します。イギリス経験論はジョン・ロックの「デカルトは人間は経験によって理性を完成させる事実を無視している」と批判した事から始まりましたが、パスカルも似たような批判を展開していたのです。時間(経験)の連続性が人の錯覚であるなら、それに基づく人が神と繋がる直観も錯覚であり、つまり神が存在する事も錯覚になってしまいます。デカルトは心身分離を主張しましたが、必然的に確実に考察できる物質の方に比重が置かれてしまい、精神の領域に属しながら確実に存在する概念である経験を軽視する結果になってしまったのです。
二つの世界の真ん中に立ってそれぞれを眺めようとするパスカルの姿勢は、物質の世界と精神の世界の存在を両方肯定し否定する仏教の視点とも重なります。彼はデカルトにより分離されようとしていた哲学と神学を再統合しようとしていたのです。
心によって認識される現実世界を重視するパスカルの考え方は実存主義哲学に通じます。そんなパスカルの主張を推し進めたのが近代デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールです。
キェルケゴールは「人生は一度きりである」事、つまり個々の主体性と現実性を強調します。時間には抽象的で客観的な側面がある事は事実ですが、時間は経験でもあり、その主体性と現実性を支える確実な概念でもあります。自分の十秒と他人の十秒は違う、というのはよく言われていることですが、それを哲学的に説明するとこういうことなのです。
キェルケゴールは経験の中でも信仰に関する経験を最重視します。人間にとって無くてはならない要素は「神と繋がる」事であり、それは人に言われて教会に行って祈るだけでは到達できない領域です。自分が今まで如何に神と向き合ってきたのかを思い起こしながら真剣に神に祈る事を繰り返す事で、漸く到達できるのです。仏教の禅宗における「無」の自覚と非常に似ています。座禅もまた、その領域に到達するには大変な修練が必要です。
そして「神と繋がる」事も「『無』を自覚する」事も、他者と繋がる事に強く関連しています。「全ては神から生じた平等な存在である」、「あらゆる人の意識は『無』から生じ、やがては『無』に還る」、という違いがありますが、その感覚を掴むことにより他者との繋がりを実感できるという事は共通しています。これは、キリスト教も仏教も宗教である以上共通して持っている要素なのです。
さらにキェルケゴールは「存在の瞬間性」について言及します。人生の瞬間瞬間は、その人のそれまでの行動と選択の結果であり、それぞれ確実に繋がっているのです。デカルトの言うような瞬間瞬間が離散的であるという発想は、その事実を見ようとしていない人の考え方です。ここも「物事は必ず何らかの縁(原因)によって生じる」と語った釈迦の教えと一致しており、連続した時間の中でも「瞬間瞬間に生まれ変わる」感覚を重視した岡本太郎の思想とも共通します。
また、この考え方は「私達の人生は神のような絶対的な存在が影で操っている」という疑いを打破するものでもあります。私達一人一人が個別に神と繋がっていると言うことは、私達が経験する事象は神と共に経験していることになります。一緒に経験しているのにどうやって操るんだ、という事ですね。神が天罰を加えた、と感じる事があるなら、それは神という他者が自分を裁いたのではなく、今までの自分の経験の積み重ねが今の自分に悪い結果として生じた、という現象が神罰に見えているのです。仏教の「縁起の説」は正にこの事実を説明しています。
「私は神と共にある」という考え方は、デカルトの懐疑を跳ね返すパワーがあります。それは個々の信仰経験に基づいた、確実な直観なのです。キェルケゴールはこの「神と共にある」という考え方を宗教的実存といい、この不幸と苦しみに満ちた人生を力強く生きるための糸口としようとしたのです。
これが、実存主義哲学の始まりです。
キェルケゴールの後、彼とは別の視点でデカルトの『瞬間創造説』を批判した人物が現れました。それがフランスの哲学者アンリ・ベルクソンです。
キェルケゴールは主にデカルトを神の捉え方の観点から批判しましたが、ベルクソンは時間そのものの捉え方において全く別の視点を展開し、そしてそれが、哲学に限らずそれ以降の人文科学や社会学にも影響を与えるようなパラダイム・シフトを巻き起こしました。
ベルクソンはダーウィンの進化論、及び、それを支えているデカルトの理論に反発して自身の哲学を打ち出しました。彼はデカルトの理論を分析した結果、「時間を空間的に理解しようとしている」という傾向を読み取りました。デカルトは私達の視点からは時間と空間は絶対的なものだと考えましたが、そこから「時間は空間の一瞬一瞬を固定した点(瞬間)をつなぎ合わせたものだ」と論理展開し、時間を空間の従属物として扱いました。
この一瞬一瞬を切り取った空間の方を重視する考え方は、私達人間を物質に還元する極端な唯物論に繋がってしまいます。もし私達一人一人と全く同じ人間が存在した場合、デカルトの論理では同じ存在と見なせるので代わりを用意しようとすれば出来るようになってしまいます。
この考え方では、先述のキェルケゴールも言及したが、時間の抽象的で客観的な側面しか説明出来ず、時間は経験でもあり、人間の主体性と現実性を支える確実な概念でもある事がわからないのです。ベルクソンは時間のこの性質を「持続性」と名付け、これについて言及しました。
この時間の「持続性」からは、時間が私達の自由意志や創造性を表現する場として機能する事が説明出来るとベルクソンは主張します。デカルトの『連続創造説』では時間は過去から未来への単なる進行だとしか捉えられませんが、時間に「持続性」がある事は、人間が自由意志や創造性を発揮して今までの人生を経験し、それがあって今ここに存在する事を保証するのです。
見方を変えると、時間を過去から未来への単なる進行と見なすのは時間の「量」としての性質を示しており、「それがあって今ここに存在する」ことを保証するのは時間の「質」としての性質です。時間にそのような性質があるのは感覚としては当たり前ですが、ベルクソンはその当たり前の考え方を始めて哲学の世界に持ち込むことに成功したのです。
ベルクソンの画期的だった点はいくつかありますが、その一つにこの時間に関する説明の中に「神」の要素がないことです。キェルケゴールは神と人間を繋げ合わせることで人間存在自体の力強さを説明しましたが、ベルクソンは人間が感じ取る事が出来る時間それ自体に人間の力強さ、創造的な力、自由意志が存在する事を保証します。
近代哲学はカントが哲学から神や神秘主義を締めだしたことにより、より厳密な議論が出来るようになった事から始まりました。ベルクソンはその形式に逢うように時間という存在を設定することで、哲学の分野で人間の力強さをより概念的に確固とした存在として言及する事を可能にしました。
ちなみにですが、ベルクソンが時間に関してこのような発想が出来たのは、カントが始めたドイツ観念論の完成者とも言えるゲオルグ・ヘーゲルの「歴史主義」がキッカケになっている、という見方が出来ます。ヘーゲルの哲学はかなり複雑で「理解するには一種の才能がいる」などと言われるくらいです。しかしそんなヘーゲルのわかりやすく確実な成果の一つとして、「過去があって今がある」という当たり前の発想を哲学に導入した事があります。
今でこそ歴史(経験)から物事を考える事は重要視されますが、その当時そう言った考え方の重要性は理解されていませんでした。つまり「保守主義」という考え方もなく、「新しいことは良いことだ」という発想しかなかったのです。カントは大陸合理論とイギリス経験論をまとめた人物として見なされていますが、ヘーゲルはイギリスで発展した経験論を、より具体的にドイツ観念論に組み込むことが出来た、ともいえるのです。
そう言った流れの中でベルクソンの「時間の持続性」という発想は様々な分野に影響を与えました。日本にも影響を与え、保守論客だった小林秀雄は「時間の持続性」を「伝統の重要性」と解釈し、戦後の保守思想を展開しました。また、西田幾多郎の仏教の「無」の思想を経験論的な視点で説明する試みにもベルクソンの影響が見られます。さらに、実存主義哲学を大きく発展させたハイデガーの現象学には、ベルクソンの時間の「持続性」についての研究成果に大きく依存しています。他にも心理学、文芸、社会学、教育学、歴史学と、幅広い影響をベルクソンは与えました。
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