実存主義において「生きる目的を探す」事は、自分の人生を生きることは自分しか出来ない、という実存的な価値観の中心とも言える考え方になります。他方、仏教において「生きる目的を探す」事に拘ることは、しばしば執着と見なされます。両者は矛盾するのでしょうか?
仏教において、執着は苦しみの元であり、特に大乗仏教においては、死ぬまでに手放すことが出来なかった執着は「無明」の中に溜まり、たとえ人生を終えて「無」の中に戻ったとしても、再び「無」から生まれ出る際に「無明」を持って生まれ、そこから同じ意識の流れが発生し、この「無明」が晴れるまで永遠に同じ事を繰り返すことになります。
「一つのことに拘ることも許されないのか」。そのように考える方も多いでしょう。しかし、仏教はその事を否定しているのではないのです。問題なのは、本人は一つのことに拘っているように思っていても、そのこだわりには複数の執着が複雑に絡みついている事なのです。
私達は思ったことを全て口に出せるわけではありません。怒りも苦しみも、その場で発散することは許されず、自分の中にしまい込むことを社会では求められます。そして、そのしまい込んだ感情は無意識の領域に格納されます。私達の無意識には、その場で処理されなかった感情の残留が無数に散らばっているのです。
その感情の残留は自己を通して自我に影響を与え、様々な悪影響を及ぼすのですが、その感情の残滓が集まると全く別の人格のように私達の自我に影響を与え、「あれもほしいがこれもほしい」という矛盾した状態に陥ることがあります(これを精神医学では「分裂」といいます)。
ここまで行かなくても、私達が「この事に徹底的に拘りたい」と考えたとしても、それを実行しようとする自我の判断には、絶えず自己を通して未処理の感情の残骸が影響を与え、「この事に拘った結果誰かに評価されたい」とか「お金持ちになりたい、モテたい」といった余計な煩悩が生じることになります。そしてこの煩悩は「一つのことに拘る」という強い(と本人は思い込んでいる)執着に絡みついており、それとこれを区別して認識する事自体が非常に難しいのです。
自己と自我について説明します。釈迦はアートマン(自我)の実体性(存在する事に絶対的な根拠がある事)を否定しました。自我は、本来の自分自身である自己が、今までの自我のあり方と身体の外で起こった現象の影響から、瞬間瞬間に判断して今この場で作り出されている「現象:〈事〉」に過ぎないと言うのです。そして、自己自体を私達は直接認識できません。自己を認識するためには、自我を通さなければ私達は自己(自分自身)を認識できないのです(つまり自我を否定し続けたら本当の自己は永遠に見いだせません。自我否定はなぜ自己がそのような自我反応をするのかを考える事を放棄しているのと同じです)。
自己と自我の区別は実存主義においても言及されていました。さらに、この自己と自我は、実存主義における「自由」にも大きく関わっています。世間で言われている自由にはひたすらポジティブなニュアンスがあり、さらに功利主義などと結びついて「社会的に成功を収めた人間には自由がある」などと考えられています。しかし、実存主義における自由は責任と表裏一体となっています。社会的に成功しようが、自らの「自由」の中で何をやっても、それに対する「責任」は常に発生し、それはその人の社会的成功とは何の関係もありません。
実存主義における「自由(およびそれに伴う責任)」を「自己」を使って説明すると、身体の外で起きる現象に対して、自己が「どのように振る舞うのか、どういった自我でそれに対処するのか」という判断に基づく反応パターンの一つが「自由」であるといえます。しかし、どんな出来事に対しても好きに振る舞えるわけではなく、自己は「それに伴う責任」も考慮し、その「自由」を具体的に設定します。
しかし、この自己判断は誰しも正しい反応が出来るわけではありません。同じ現象に対して、そこから感じ取れる「自由」は人によって異なります。実存主義においては、自己がこの「自由」を正確に捉えたうえでその自己にとってもっとも適切な判断を下し、それを自我反応として表に出すことが目指され、これを自己実現と呼んでいます。外の現象に対して、その自己にとってそこから正しく「自由」を読み取り、その対応として自我を作り出して対処する、この世界のあらゆる現象に対して一貫した自己の反応が出来るようになることが自己実現なのです。
世間では自己実現は素晴らしい肯定的な言葉として扱われますが、それは世の中のどんな事象に対しても自己が自分に最も適した反応する事が出来る状態のことであり、その反応が社会にそぐわない場合も珍しくないため、社会が個人の自己実現を肯定的に評価すること自体が矛盾しているのです。ニーチェの「超人思想」などは社会にそぐわない良い例です。
この社会に対して自分にとって正しい反応が出来るようになることを先ほどの「何か一つこだわりを見つけて、それを貫く」を再度考えてみると、それを実現するためには、社会に対して正しく理解する必要があることが分かります。ニーチェが他者や社会を生涯と決めつけた結果失敗したように、人間社会は必ずしも個人を妨害するだけの存在ではありません。
特に日本の場合「申請主義」という形式を取っており、自己分析をして、それに見合う制度の使用を申請すれば保証が受けられる仕組みが私達の税金を元に作られています。この例から考えても、社会は必ずしも個人を妨害するだけの存在ではなく、私達の自由を助けてくれる要素も確実に存在し、それに気付くかどうかなのです(しかしそれには詳細な自己分析が求められます。曖昧な自己分析では、社会は動いてくれません)。
つまり、「自由」というものを考えたとき、個人と社会は影響し合っていて、社会から自分の「自由」をどれほど正確に読み取れるか、そしてそれを自分の「こだわり」に反映できるかが重要になってきます。社会から読み取れる自分の「自由」にあわせて、「こだわり」に絡みついている煩悩を一つ一つ解きほぐしていくことで、「自由」と「こだわり」を合致させることが出来ます。そして、その「こだわり」に向かって人生を賭けて取り組んでいく中で、最終的にはその「こだわり」に対する執着をも手放すことが出来るわけです。
しかし、ではそれを実現するためには具体的にどんな行動をすれば良いのか?この「実践と習慣」は実存主義哲学の苦手分野でもあります。それを補うような要素が仏教の中から見出す事が出来るのです。たとえば「こだわり」に絡みついている煩悩の解きほぐしに有効な手段の一つが座禅です。
仏教は紀元前500年から始まり、その後大乗仏教として中華を通して日本に渡りました。そして日本人の価値観に適合するように日本仏教は発展し、研究されてきましたが、その研究の大きな成果の一つが座禅なのです。日本人がどんな煩悩を抱きやすいのか、そしてその煩悩と向き合うのはどんな考え方が有効なのか。そういった日本人の歴史的な側面から徹底して分析され、積み上げられた研究成果が座禅には備わっています。
「社会は個人を規定する」という考え方があります。これは実存主義哲学の対抗馬として現れた構造主義哲学の考え方です。構造主義者は実存主義に対し、人間は社会がなければ生きていけず、社会において人間の自由は社会によって作り出されている事が事実としたある為、社会のあらゆる判断を個人の自由に基づかせるのは矛盾している、という批判を与えました。私達はこの日本という国に住んでいる以上、良い悪いとは別に、そこで培われてきた歴史に基づく文化や習慣から絶えず私達の自己は影響を受けて来た、という事実があります。その自己に対する日本人に多く見られる自我反応も仏教の中で研究されてきており、その事実を踏まえた上でも座禅は有効な手段と言えるのです。
社会における「自由」と自己における「こだわり」の解像度をそれぞれ上げる具体的な手段を、実存主義哲学と仏教は提供しうる事が分かりました。両者を照らし出して導き出した「自分が社会から見いだせる自由」と「本当に自分が望むこだわり」の中道を目指す事で、私達の人生は豊かになります。しかし、話はこれで終わらないのです。この中道を目指す事は、仏教の更なる真理に到達する洞察を与える大きな可能性があるのです。
先ほどの座禅は、禅宗の「無」の思想に基づいた修行法です。これは仏教が中華に伝わった際、元々そこにあった老荘思想と結びつくことで生まれた考え方で、「この世の全ての意識は『無』から生じ、やがては『無』に還っていく」とされています。さきほど「無明」の話をしましたが、私達は死後その意識は無に還りますが、「無明」もまた「無」に還っていきます。そしてまた新しい意識として生命に宿るとき、その「無明」自体が核となり新しい意識を形成するのです。これが無明が完全に晴れるまで何度も繰り返されます。
この思想から言えることは、個人は世界全体の一部であり、元々は一つの存在だったのだ、ということです。禅宗は、「無」の思想に至るには具体的にどうすれば良いのかを研究するために生じた宗派であり、そのさらに具体的な方法が座禅なのです。座禅の最終目的は、自己と世界の区別を無くし、自分の自己と自我(合わせて意識)が「無」から生まれる瞬間どんな感覚だったのかを直観する事です。その「絶対無の自覚」こそが、仏教において「覚り」と呼ばれるものです。
ちなみにですが、仏教の「無」とキリスト教の「無」は全く違う概念として扱われます。キリスト教において「無」は神とは真逆の概念として扱われ、キリスト教以外の神(偶像)を信じて祈っていると最終的に「無」に導かれ、その魂は消滅する、と考えられています。キリスト教には「無から生じ無に還る」という発想自体がなく、すべての魂(意識)は神から独立して誕生し、神を目指す存在だと考えられています。
「自由」と「こだわり」の中道を行くことは社会と調和することを意味します。そして、それは自分自身が最も適切な形で社会の一部としてそれと一体化する事を意味します。この感覚は世界全体と一体化する感覚、すなわち仏教の「覚り」にも繋がっているのです。だからこそ、自分自身のこだわりを探し出し、それを社会と調和した形に変えていこうとする努力は何よりも尊く、それが「幸福な人生」に繋がっていくことになるのです。
コメント