雑多記事 9.『悟性』の意味の変遷

皆様は「悟性」という言葉をご存じですか?基本的に日常会話の中には出てこないですし、言論人の言葉としても余り使われません。悟性は「understanding」からの訳語であり、「理解する力」というニュアンスがあります。ジョン・ロックという哲学者が「人間が普遍的な知識を得るためには経験から普遍性を読み取る力が人間の中になくてはならない」という発想から「悟性」という言葉が生まれました。そして後年にカントが持論である認識論の中に悟性という概念を組み込んだことで、その意味はより厳密になりました。

しかし、その後の歴史で悟性のニュアンスは変遷を辿り、現在は「understanding」という単純に著しきれない、複雑なニュアンスがある言葉になっています。この言葉の意味を正確に捉えることで、「悟性」に関する哲学的探求が、今の私達の科学や社会認識にどのように関わってくるのかが明らかになり、皆さんの科学や社会の捉え方に大きな視点を提供できると思っています。それでは、解説を始めさせていただきます。

1.カントの超越論的な「悟性」

教科書の中で「悟性」という言葉が出てくるのはカントの説明のところだ、という印象が多いと思われます。カントは人間は何を持って生まれてくるのかを考えた際に、あらゆる人間に共通している要素として3つの要素を上げました。それが感性、理性、そして悟性です。カントはこれらを人間は生得観念として等しく持ち合わせている、と考え、これらからなる人間特有の認識形式を純粋理性と呼びました。

元々カントの認識論のメインテーマは、純粋理性についての掘り下げです。イギリス経験論によって主張された「白紙説」のように、人間は生まれながらに理性は持っていないのかどうかの検証をカントは試みました。まずは人間の理性で捉えられない範囲と捉えられる範囲を「超越的な観点」と「超越論的な観点」として大別し、神や神秘主義のような要素を「超越的」として哲学から排除しました。そして、人間は生まれながらに何らかの理性を持っているのではないか?という問いを「超越論的」として、検証を開始したのです。

カントの「悟性」について詳しく解説すると、私達は感性によって感じ取った情報を、私達の体内で加工してから判断するとカントは考えました。人間の見ている世界の見え方と、他の生き物が見ている世界の見え方は違うからです。肉食動物と草食動物は視界が異なりますし、トンボは世界を三次元的に見る事が出来ます。犬や猫は色素は白黒しか認識できません。カントはこの事実を、動物によって悟性が異なる、と表現しました。

そして、悟性から判断して人間は理性を形作っていきます。人間が人間である以上、人間の中には外からの情報は悟性により加工された形でしか入ってきません。カントは『実践理性批判』において、人間同士は悟性は共通しているのだから、理性を通じてわかり合える、というように持論を展開し、自身の道徳哲学を構成しました。このように説明すれば、人間同士がわかり合えると言うことに論理的正しさを与えることは出来ます。

しかし、この悟性という概念は、カントが起こしたドイツ観念論が否定され、現代哲学が始まるとともに、そのニュアンスが変遷していきました。

2.ニーチェの身体理性

ドイツ観念論はニーチェによって大いに批判されました。特にニーチェはカントが『実践理性批判』で述べた道徳哲学を痛烈に批判しました。『実践理性批判』の論理は第一次大戦後に発足した国際連盟を支える基礎理論としても採用されたものでしたが、内容としては「一人一人が理性を働かせて国家をもり立てれば、世界平和を出来る」という、ルソー以来のフランス啓蒙思想と地続きになったような理論でした。

実存主義哲学を打ち出したニーチェは、人間が人生を生きる際の判断基準となる倫理に対しても理性主義を持ち込むカントの姿勢に反発し、「身体理性」(※)という概念を打ち出します。そして、カントの倫理学には、人間の理性以外の、例えば感情や意志などと言った側面が考慮に入っていない、と批判したのです。「身体は大いなる理性である」と主張し、人間の行動基準を決めるのは頭の中で構築した理性だけではなく、感情などの不確定な要素を全て含めたような「身体理性」であると打ち出したのです。それゆえに、一人一人の理性は全て共通しているという保証は何処にもなく、違う理性を持っている人間を排除する事にもなりかねない、と論理展開しました。

ニーチェの打ち出した実存主義は、「主観を客観的に観察する」という矛盾した要素を含んだ挑戦という見方も出来ます。結局カントが人類で共通していると考えていた理性には、実際には一人一人が主観を通して作り上げたものであり、共通している部分も確かにあるが、完全に同じではないため、わかり合えると断言できない事が明らかになったのです。そして、この「主観を客観的に観察する」要素を抜き出して研究した学問である現象学が、「悟性」の解釈に大きな転換をもたらしました。

(※)・・・正確には、ニーチェ自身は「身体理性」という単語は使っておらず、後世の哲学者の造語ですが、わかりやすさを優先してこの文脈で使用しました。

3.ハイデガーの存在論的な「悟性」

ハイデガーは現象学的な視点から様々な概念を再定義し、中でも「存在」についての再定義は有名です。そして、「悟性」に対しても再定義を試みましたが、それはハイデガーが最も注目した「存在」の再定義とも関わってきます。

元々存在論において、もののあり方は「である」(本質)と「がある」(実存)の二通りに大別でき、専ら前者が注目されてきました。なぜなら、「である」事は他のものと比較が可能である為、議論が深めやすかったからです。しかし、「がある」はそうはいきません。もしある人について性格、身体的特徴、年齢といったその人独自の要素を全てもった人間を連れてきたとしても、この二人は同じ存在ではありません。ある人はある人でしかなく、比較が出来ないのです。なので、それまでの存在論は「あるものはある」から出発して、キリスト教神学において「この世界に存在するすべてのものが存在する根拠は神である」というように信仰に組み込むことで解決と見なしていました。

ハイデガーはその状態から、「がある」事と神の要素を切り離すことに成功しました。ハイデガーは「がある」と言うことを、瞬間瞬間のそのもののあり方と捉えます。ものは、それ単独では存在できません。ものはかならず世界の中で存在し、その世界の中のほかのものとの関係性の中で存在します。そして、その関係性は瞬間瞬間毎に少しづつ変化していき、不変ではありません。そのように捉えれば、神のような絶対者がものの存在を保証する必要性がないのです。

そして、このもののあり方を人間に適応する際に「悟性」の意味も変わってきます。カントがいう「悟性」の捉え方だと、その人本人は自分自身を「である」事の集合体としか捉えられず、「私がある」根拠則ちアイデンティティが理解できないことになっていまいます。ハイデガーは人間の悟性には「私がある」根拠を把握できる力もまた備わっており、カントの解釈では不十分だと指摘しました。

私は今の瞬間どんなあり方をしているか。他社や社会とこの瞬間どういった関わり方をしているか。様々な「である」のうち今この瞬間どんな「である」を優先しているか。今この瞬間の「私がある」あり方を人間の悟性は捉えられるとハイデガーは考えたのです。別の視点で見たとき、カントの悟性の捉え方は「人間は共通した悟性を持っている」という静的な見方であるのに対し、「人間はその瞬間瞬間にあり方が変化し、その変化を捉える能力が悟性にはある」という動的な見方をハイデガーはしました。

4.ウィトケンシュタインの言語論的な「悟性」

ハイデガーとほぼ同時期に、別の観点から悟性の動的な見方に至った人物がいます。それが、ウィトケンシュタインです。彼は言語論の、言語にはこの世界のあらゆる存在の意味を固定する性質がある、という観点から様々なものを観察しました。そしてそれは、人間の悟性もそうであると考えたのです。しかし後年、彼は「言語ゲーム」という発想を打ち出します。

チェスや野球のルールがゲームごとに異なるように、言語は異なる状況や目的則ち文脈に応じて異なるルールを持つ、という性質があると論理的に説明しました。つまり、言語は文脈、文化、社会的慣習などに依存して使用されている為、その意味は固定ではあり得ず、用法によって変化する事を意味しています。人間の悟性もまた、その時その時の他社及び世界との関係性や、それまでの悟性のあり方により、その瞬間の悟性のあり方は変化する為、悟性もまた固定的ではあり得ないと、ウィトケンシュタインは結論づけたのです。

ハイデガーとウィトケンシュタインのそれぞれ別方向からの視点により、カントの悟性の定義は論破されたのです。現代哲学においては、悟性は動的なものとして捉えられ、研究されていくことになります。

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