はじめまして

皆様、初めまして。サイト管理者の仮ボスと申します。

このサイトは、歴史上の哲学者、思想家が残した名言について解説していきます。

 

1.哲学を学んだ先にあるもの

1-1.哲を希う学問

皆様は哲学にはどのようなイメージがありますでしょうか?恐らく、難しい、何のためにあるのかよく分からない、勉強しても役に立たない・・・そんなイメージがあるかも知れません。

哲学は英語でphilosophyといい、古代ギリシア語の「知恵(ソフィア)」を「愛する(フィロ)」を組み合わせた言葉で、この時代から変化すること無く現代でも同じ名前です。それが明治時代に日本に入ってきました。

当時の学者はphilosophyを日本語訳しようと苦心しました。はじめはそのまま「愛知学」と呼称しようとしましたが、定着しませんでした。

恐らくですが、明治時代の廃藩置県で「愛知県」が出来たため、紛らわしいので没にしたのでしょう

やがて、西周という学者が中国古典に〈聖希天、賢希聖、士希賢〉:聖人は天を希(こいねが)い、賢人は聖人を希い、士は賢人を希う・・・という表現を見付けました。ここから、哲(言葉が明晰で賢い事)を希う学問、『希哲学』と名付けられました。(その後「希」が取れてしまいましたが)。

「希う:こいねがう」は「愛し求める」です。賢くなるために多くの知識を自分のものにしたい、どうすればいいか?それは、新しい知識を自分の頭に受け入れるために、自分の考え方を変化させることです。愛するものを自分のものにするために、自分を変えるわけですね。その自分を変化させるためには、そもそも自分はどうしてそう言った考えをしていたのかを思い出しながら正しく把握しなければなりません。

哲学で扱う分野はどれもこれも分かりずらく一筋縄ではいきません。この知識を丸暗記ではなく私達自身の血肉にする為には、都度柔軟に自分の考え方を変化させ、新しい知識を受け入れようとする努力が必要になります。これが私達が哲学を学ぶ第一の意義です。

哲学を学ぶことで、自分の考えを柔軟に変化させる訓練が出来ます。哲学はどれも難解で、それ単体で理解しようとしても難しいです。そういう時に役立つもの、それがその哲学者が生きた時代背景だったり、哲学者が活躍した国の情勢だったり、哲学者がどんな人生を送り、どんな功績を挙げたのか、といった知識です。より正確に理解するには、こういった情報も吟味する必要があります。その過程で歴史や地理の知識も増えていくことになります。

その反面、例えば数学や物理学は歴史背景などの繋がりから重要事項を理解することは非常に困難です。というよりも、歴史的経緯に基づいて解説しているような理数系の本自体がほとんどありません。数理学と哲学は似たような難解さを持っていながらも、哲学はあらゆる方面からの解説本が多数出版されている為、圧倒的に理解の手がかりが多いのです。

1-2.誰でも持っている、哲学を理解する”手がかり”

しかし・・・確かに哲学を勉強すると良さそうだけど、それでもやっぱり難しそうで自分に出来ると思えない、そんな色々なことを勉強するのはちょっと・・・そのように思われた方もいらっしゃると思います。そう言った方にオススメの勉強法があります。

それこそが、名言から哲学を学ぶことなのです。

哲学は難しくてよく分からないけど、哲学者や思想家のこの言葉が好き。皆さんも経験があるのではないでしょうか?そして、私は声を大にして言いたいことがあります。

それは、その「なんとなく好き」という感覚を大事にして下さい、という事です。

皆さんがなんとなく好感を持った言葉は、その発信者の出版物なりスピーチなりの一部分であり、文脈の中の言葉です。その言葉を発した哲学者は様々ある言葉や言い方の中からその言葉を選んで発信しています。そこには隠れたメッセージが込められていることは珍しいことではありません。

加えて、皆さんがその言葉を、理由が分からないけど好きだと思ったのであれば、その言葉に込められたメッセージを自分が無意識に感じ取り共感している、と言うことがあり得るのです。その理由を解き明かす事で、皆さんは皆さん自身がどんな人間なのかを把握する手がかりにもなります。

今までなんとなくイメージしているだけだった自分自身を言語化出来るようになる事、これが哲学を学ぶ第二の意義です。

特に注意深くなっていただきたいのが、皆さんが小さいときに共感を覚えた言葉です。子供の時に共感を持った言葉は、皆さん自身の深い部分を理解するための大きな”手がかり”になり得ます。ではどうやって分析すれば良いか?その一つの例を、このサイトで示していきます。

 

 

2.「内の自分」を明らかにする哲学

2-1.雑念なんかじゃない

分析方法は後ほど述べるとして、次の名言を見て下さい。

幸福な人とは・・・自分の人格が内部で分裂してもいないし、世間と対立してもいない人のことである。バートランド・ラッセル『幸福論』

バートランド・ラッセルはイギリスの哲学者で、大学で教鞭を執る一方で、戦後のイギリスで平和活動を率先して行い、何度か投獄された経験もあるようなアクティブな哲学者です。

本音と建て前、という言葉があるように、私達には周りの人間と関わる時の自分である「外の自分」、その「外の自分」が作られていく際に押さえ込んできた結果できた「内の自分」があります。この「外の自分」と「内の自分」が敵対していないような人が、ラッセルが主張するところの幸福な人です。

「外の自分」を把握する事は難しくないと思います。というより、「外の自分」こそが自分自身だ、そう思っている人は少なく無いと思います。しかし本当は外の自分を作り出すために、人間は様々な思いを心の中に押さえ込んでいます。そして、本当はこうしたかった・・・そんな思いが生まれてから蓄積された結果、「内の自分」を形成する事になります。

本音と建て前、という言葉がありますが、注意すべきなのは、建前と呼ばれる「外の自分」と本音と呼ばれる「内の自分」は、それぞれ一個の人格を持っていると言うことです。基本的に「外の自分」が「内の自分」を押さえ込んでいる場合が多いですが、「内の自分」は単なる雑念ではなく一つの人格なので、押さえ込みすぎると「外の自分」で制御できないような動きをします。これが結果として自分をコントロール出来ないとか、酷い場合は精神病を患ったりします。両方とも私達自身であり、どちらも疎かにするべきものではありません。

2-2.「内の自分」は感覚で訴えている

ある行動を起こすとき、外の自分の意見を押さえて内の自分の声に従って行動することを「直感」と言ったりします。しかし、この状態は内の自分が咄嗟に発した声に従った状態で、何故こんな声を発したのか分かっていない状態です。

それに対し、「外の自分」と「内の自分」をしっかり把握したうえで「心の声」に従って行動する事を「直観に従う」といいます。この言葉は元々は仏教の言葉なのですが、戦後に小林秀雄という文藝評論家が取り上げたことで有名になりました。直感に従って生きている事が、ラッセルが言う所の「人格が分裂していない」状態に当たります。決断に迷いが無く、そしてその決断に後悔を抱かないような姿勢です。

逆に、直観に従った生き方をしたいのなら、外の自分だけではなく、内の自分をしっかり把握する必要があります。そのための手段の一つが、「自分の感覚を大事にする」と言うことです。

哲学者達は、自分たちが様々なものに抱いた感覚を、過去の哲学者の思想を参考にし、時には自身で新しい言葉を作り出したりしながら、その感覚を言語化していき、自分自身を把握してきました。哲学用語には、その言葉を作り出した哲学者の試行錯誤が詰まっています。哲学者の偉大な点を一つあげるとすれば、自分だけでは無く、万人が理解できる学問という形で感覚というあやふやな存在を説明する道具を開発した、ということです。

感覚という人それぞれとしか言いようがないものを何とか言葉で説明しようとしているため、どうしても哲学は言葉が細かくなってしまいます。これが哲学を難解にしている原因の一つです。また、誰にでも使えるような単純な道具では無いため、使いこなすには使用者の鍛錬が不可欠です。

自分が感じる違和感やマイナスの感情は、「内の自分」が発している声といえます。そして、そこからどんな情報を読み取れば良いのか?哲学はその答えを様々な形で私達に示しています。

哲学を学んでいく中で「内の自分」を明らかにする、という話をしてきました。ではどのように分析するのか?それは、➀カウンター、②西洋と東洋、③現代社会、④ポジティブ心理学です。いきなり何を言い出すのかと思われたら申し訳ございません(笑)。一つ一つ説明して行きます。

 

 

3.視点➀カウンター;批判から全ては繋がる

3-1.哲学の歴史はカウンターの歴史

一つ一つの哲学は難解ですが、理解を助けるような特徴があります。私が最も注目したい特徴は、哲学はそれ以前の哲学の批判をきっかけに生まれた、と言うことです。ある哲学が打ち出され、その哲学の矛盾点が指摘され、新たな哲学が生まれる、この過程をずっと繰り返してきました。言い換えると、哲学の歴史はカウンターの歴史と見なすことが出来る、と言うことです(実はこのことは学問全般に言えることです)。

もし理解しづらいと感じた哲学があるなら、それを打ち出した哲学者は誰から学び、その人の何を疑問視したのかを読み取ろうとすると見えてくるものがあります。また、カウンターの対象は前の哲学者個人では無く、その時代の社会背景にあったりもします。

たとえばローマ帝国でキリスト教が布教した際に哲学は一旦排除されたのですが、ローマ帝国の土台が揺らいだ為、キリスト教の神を論理的に確立し、その権威を盤石にする名目でプラトン哲学を吸収したキリスト教神学が発展しました。

これには西からのアングロサクソン系の異民族の侵攻が関わってきます。この異民族の侵攻に抗いきれずローマ帝国は西側を放棄して領土が東側のみとなり、中世社会が始まることになります。 

キリスト教の正統性を証明するにはどうすれば良いのか。その目標に向かって神学となった哲学は発展していきます。もしくは、キリスト教(の特定の宗派)が正しいという前提で議論するのはおかしいと考える哲学者もおり、表向きはキリスト教を肯定しながら、持論を神学の場で展開することで神学は発展していきました。

神的な事象を肯定するのか否定するのかは、現在の哲学においても議論が続く内容です。「我々に命を与えた神の存在を否定すれば我々には生きる意味が無い事になる」とキリスト教徒は主張しています。また、物質主義の元で発展したはずの量子力学において、魂は本当にあるのではないか、という説が出てくるなど、物質主義では説明出来ないことがいくつか発見されています。

3-2.全てを繋げる幹

あらゆる事柄を利用しなければ哲学を理解するのは難しい、と先ほど申し上げましたが、哲学を学ぶことはその事柄を理解したらどういうことが分かるのかという視点を持つことにも繋がります。そう考えると、歴史も、各国の位置関係も、単なる暗記では無く哲学及びあらゆる学問の発達に意味を与える存在です。

「浅く広く」という言葉があります。これは知識を集めるときに理想的と見なされている態度、と現代では思われています。しかし、少し考えてみると、浅く広く丸暗記した知識を、どうやって使いこなせば良いのでしょうか?試験に出るような知識は、問題集や過去問を解けば知識を定着させることは出来ますし、仕事で必要な知識は働いていれば自然と覚えるでしょう。では、親しい人との何気ない会話の時、自分が学んだ知識を自在に相手に伝えるようにするにはどうすれば良いでしょうか?

「浅く広く」という言葉には、大切な言葉が欠けていると私は思います。それは、「浅く広く、全てを繋げる」です。バラバラの知識をまとめる一つの幹に、哲学はなり得ます。世界史、日本史、地理、政治、経済、文学、芸術、音楽、宗教、科学、世界情勢、イデオロギー、運動、武術、占い、オカルト、マンガ、アニメ、ゲーム、サブカル全般、そして何より「人間の生き様」・・・哲学は、全てつなげることが出来ます。

哲学の勉強を繰り返す事によって皆さんの知識も増えていきます。一見何の繋がりも無い事に繋がりがある事を認識する事を、教養があると言ったりします。なので、本当に教養がある人というのは、その知識が別の知識にどう繋がるのかを説明出来ます。あらゆる知識を繋ぐ哲学、そしてその哲学同士を繋ぐ幹こそが、カウンターなのです。

 

 

4.視点②東洋と西洋;日本人のアイデンティティ

4-1.日本仏教という大きな手がかり

普通「哲学」というと、西洋哲学の事を指しますが、日本を含めた東洋においても哲学は発展してきました。例として、仏教にも影響を与えたウパニシャッド哲学、中国の春秋戦国時代に栄えた孔子を代表とする諸子百家の思想、そして仏教と儒教が入ってきた日本において成立した武士道及び江戸期に『古事記』を解読した事をきっかけに発展した国学などです。

西洋哲学は非常に論理的で、特に近代からは人の生き方すらも理性で説明しようとする姿勢があります。それに対して、東洋の哲学には自然と人間の関係性を中心に据えた思想が哲学の核になりました。

まず最初にインドでウパニシャッド哲学が誕生し、文字が無かったインドでは口伝で伝わっていきました。中国でも『詩経』や『易経』といったこの世の成り立ちについての本が書かれました。これは大体紀元前800年頃で、この時代の中国には文字の文化があったので、それを写経したものが現在でも残っています。しかし中国大陸が春秋戦国時代に入った結果、「どうすれば人が死なずに済むか」という思いを根底にして、孔子の儒教をはじめとした諸子百家が発展していきました。

諸子百家が戦乱の中で発展したのに対し、インドで小国の王子だった釈迦は、ウパニシャッド哲学の影響を受けながら「人は何故苦しんで生きなければならないのか」という思いを根底にして思索を深めました。そして35歳の時に悟りを開き、「ブッダ(目覚めた者)」となって仏教を開きました。その教えは一つ一つが合理的であり、現在でも仏教は『最も哲学的な宗教』と言われています。

その合理的な教えがやがて日本に伝来し、日本仏教として独自の発展をした結果私達の身近に多くのブッダの教えがあります。そして、仏教の合理性は西洋哲学の論理展開と重なる部分があり、これも哲学の理解の参考になります。

例えば、「禅問答」という習慣がお寺にはあります。日本人は明治時代になるまでディベート(討論)という習慣がありませんでしたが、仏教に帰依する僧侶達は、弟子が短い問いを発して師匠がそれに短く答える、という禅問答の習慣がありました。その受け答えを通じて、弟子は仏教の教えの理解を深めてきました。

4-2.自分と過去の日本人の「感覚」を比較する

また、日本の神話とギリシア神話には似ている部分が多くあったり、キリスト教が布教する以前の古代ローマ及びその前の古代ギリシアの道徳的な共通規範が江戸時代のそれと似ていることが指摘されていたりします。これは古代ギリシアが日本同様島国だったからだと言われています。日本神話は『古事記』に描かれていますが、この古事記を江戸期の日本人が読めるように翻訳したのが本居宣長であり、宣長は古事記の翻訳を通して仏教や儒教以前にあった日本人の思想について考察を重ねました。それが日本国学として発展しました。

古代ギリシアと日本の最大の違いは、日本は単一民族なのに対し、古代ギリシアは様々な人種が交流するなかで発展しました。その結果様々な民族が持つ様々な神話がありましたが、その神話の共通点及び相違点からこの世の理を考えようとする動きが起こり、それが哲学誕生に繋がったと言われています。

西洋哲学が難解と思われるのは文化の違いも少なからず影響しています。なので、私達が慣れ親しんだ東洋思想の中に西洋哲学を照らし合わせ、似ている点と違う点をハッキリさせることでより腑に落ちる形で理解できます。特に、先述の通り西洋と東洋の哲学は成立する根底が違うため、似たことを言っていてもその文脈全体では全く違うことを主張していることも珍しくありません。

また、その違いに注目することで、私達の先人達がどういった考え方を尊重してきたのか、それを正しく理解する手助けにもなります。それは現在の日本でどのような形で受け継がれ、私達の生活に影響しているか。哲学の正しい理解を、日本人のアイデンティティの理解に繋げることもできるのです。

 

 

5.視点③現代社会;過去の視点で現在を観る

5-1.インプットのためのアウトプット

先ほど「哲学の理解の手助けになる要素」として③現代社会と④ポジティブ心理学を挙げましたが、この二つは前者二つに比べ、理解の助けになるというより、哲学を理解した事によりこれらの理解を深められる一例といった方が正しいかも知れません。言うなれば、➀②はインプット(学習)の為のツールで、③④はアウトプット(実演)の為のツールとみていただくとわかりやすいと思います。

西洋哲学の内容は、現在の政治や経済、そして当然現代哲学にも影響を与えています。現代哲学及び、現代の政治経済にどのように繋がっていくのかを自分なりに考えられるようになる事も、哲学を学ぶ意義です。

また、これも皆さんに是非覚えておいてほしいことなのですが、ある程度インプットしたら、何らかの形でアウトプットしないと、次のインプットの妨げになる、という事がありえます。これはあくまで私のイメージなのですが、インプットしたばかりの知識は、その知識の回りの余分な情報もまとめて丸暗記している状態で、頭の中で分解できていません。

その余計な物がくっついた知識を分解して使いやすい形で脳内にしまっておくためには、例えば人に説明したり、日記を書いたり、別の人が書いた本を読んだり、YouTubeの動画を見たりすることです。そして、本当に効果的なのは実際にその哲学の知識を使ってブログなどを書いてみることが一番良いと思います。

ブログで書いた文章は当然第三者が見ることになります。人に見てもらうためにいい加減な文章は書けませんし、本の丸写しをしても意味がありません。実際私も書いてみて思いますが、自分の考えている事がそのままわかりやすい形で出力出来るわけではないので、今まで何度もやめたくなりました(笑)。

しかし私はこう考えます。「自分の感覚を他者にわかりやすく伝えることが出来るのは、自分自身だけだ」。自分が苦労して理解した形を示すことが出来るのは、自分しかいません。そして、それを示すことによって、誰かの理解の手助けが出来るかも知れない。自分の頭の中だけのことだったもので、誰かと繋がりが出来るかも知れない。そう思い、私はやろうと思った所存です。

すこし話がそれてしまいました。申し訳ございません。それでは、実際に現代活躍している哲学者を見てみましょう。

5-2.現代の天才哲学者、マルクス・ガブリエル

たとえば現在有名な哲学者として、マルクス・ガブリエルという人物がいます。彼は、『何故世界は存在しないのか』という本を執筆した、ポストモダンの批判を行っているドイツの哲学者です。この本の主張を論理を省いて一言で説明すると以下のようになります。あらゆる世界が存在する。存在しないのは、それらの世界の数を範囲づけるような「世界」だけだ

彼は自然主義を批判します。自然主義とは、自然科学を最上の判断基準として全てを判断することであり、要するに現代社会のことを指しています。唯物論とも見なせるでしょう。自然主義の元では宗教に根拠はありません。つまり自然主義の社会では宗教や超自然的なものは「理にかなってない」ものとして扱われているのです。現代社会を支配しているこの考えを、ガブリエルはこのように批判しました。「自然主義により支配されている世界もあれば、それ以外の原理が支配している世界もあり、それに基づいた倫理もある。それぞれの人が同じ世界を見ているとは限らない」。

ポストモダンとは、ジャック=デリダという哲学者の考え方を基盤にして出来た思想で、絶対的に正しい見方は存在しない、と言うことです。絶的的に正しい世界は存在せず、それぞれが見えている世界を尊重しなければならない、そのように主張しました。わかりやすく言うと相対主義で、多様性を尊重する世界をデリダの哲学は主張しました。ガブリエルはこの事に対しても、同様に批判します。「一人一人が見ている世界は確かに違う。しかし、絶対的に正しい世界もまた存在する。存在する以上、それを仮定して議論を進める事は出来るはずだ。議論から逃げるな!」

論理的な説明は省きましたが、要するにガブリエルの主張はそういうことです。あらゆる世界は存在するが、それらの世界を範囲づけるような「世界」は存在しない。そう主張しました。これがマルクス・ガブリエルが現代哲学に放ったカウンター、「新実在論」です。

ガブリエルの主張はまだまだ発展途上ではありますが、彼の主張がポストモダンにより閉塞していた哲学業界に大きな刺激を与えました。現在もガブリエルはテーマを変えながら、世界を飛び回って持論を展開しています。

実は、ガブリエルと似たような主張をしている考え方があります。それが先ほど解説した仏教(大乗仏教)なのです。

5-3.現代の疑問の答えを出していたお釈迦様

意識と言う言葉がありますが、これは元々は仏教の言葉です。「識」は物事を捉える精神の作用(心と言い換える事も出来ます)であり、人は五つの識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、つまり五感の事です)及び、それらに対する心の反応である「意識」によりこの世界を認識している、と仏教では考えます。

元々は仏教用語だったため、明治以前の一般人は意識などという言葉は知りませんでした。西洋から「conscious」という言葉の訳語として「意識」が当てられてから世間に浸透し、「意識が高い」などというように用いられるようになりました。

仏教は長い歴史の中で上座部仏教と大乗仏教に分かれたのですが、大乗仏教の考え方の一つに、「唯識論」と呼ばれるものがあります。それによると、人が感じ取れる「世界」は、六識(五識と意識)とさらに奥にある二層の無意識;脳内にあるとされる末那識、さらに人体の外に存在するとされる阿頼耶識、この八つの識によって感じ取れる「世界」のみであり、その世界は個人によって異なる、という考え方です。その個人個人により異なる一つ一つの世界を業界といいます。

阿頼耶識について補足します。阿頼耶(アーラヤ)とは蔵という意味で、ヒマラヤは雪(ヒム)の蔵のような山、という意味です。では、阿頼耶識は何をしまうための蔵なのか?それはあらゆる物事の原因となるような要素をしまっておく蔵であり、その要素のことをカルマ(業)もしくは種子といいます。仏教ではあらゆる物事には原因がある(縁起の説)とされますが、人間の感情にもまた原因となる種子があるとされます。

あらゆる事に原因があるという考え方はウパニシャッド哲学の時点であり、これを因果応報の思想と呼びました。仏教ではこの因果の道理の事を縁起の説と言い換え、因縁の考え方の一部として説かれました。

仏教では修行を通して、自分の無意識の中から「種子」を見出し、原因を明らかにする事を目指します。余談ですが、「諦める」とは「明らむ」が変化した言葉であり、「怒るのを諦める」とは「自分が怒った原因を明らかにする」と仏教では考えます。そして、個人が見ている世界もまた、それぞれの阿頼耶識に蓄えられた種子によって、違った見え方をしています。

大乗仏教では魂の存在を信じています。それぞれの阿頼耶識に収まっている種子は、個人が今までに生み出してきたものだけではなく、それまでの前世で生じた種子も収まっており、それが影響してその人の世界の見え方、感じ方を決めている、と考えます。

「なんだ。じゃあやっぱり一人一人見ている世界は違うんじゃ無いか」。そう思われたでしょうか?実は絶対的に正しい世界を認識できる存在が、この地球上に存在したことがあるのです。それこそがお釈迦様です。あらゆる原因を明らかにして「悟られた」お釈迦様には、何故世界がこうなっているのかを全て理解していました。

 

マルクス・ガブリエルも仏教も、一人一人が見ている世界が違うことを主張しましたが、ガブリエルは多様性という言葉で議論から逃げる姿勢を非難するために主張し、仏教はお釈迦様が見ておられたような世界を我々も少しでも見れるような人間になる事を目指すために説いています。

一見複雑で難解な現代哲学も、それまでの哲学をしっかり理解していけば似た考え方を探し出すことで容易に理解できます。

 

次に④ポジティブ心理学について解説しようと思ったのですが、少し長くなってしまったため、個々で一旦区切ります。次回は、哲学と心理学はどのように繋がっていったのか、そしてポジティブ心理学にどのように繋がっていくのかを解説しようと思います。

 

それではここまでお読みいただきまして、誠にありがとうございました。またのご閲覧をお待ちしております。

 

 

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