第二回 アリストテレス②幸福その2

第二回 人間は自然本性的にポリス的動物である。/神の領域であり哲学者の仕事である『観想』こそが、それ自体を目的とする完全な幸福なのである。『ニコマコス倫理学』

皆様、はじめまして。そして、前回に引き続きお越しいただきまして、誠にありがとうございます。

第二回目、始めて行きたいと思います。それでは、概要からご覧下さい。

 

🐂「どうモ~、こんにちは。分かりづらいブログをわかりやすく解説する試みです。それでは早速始めていきましょう」

 

1.人間が社会を作った理由

前回、

人間の目的自分自身の徳を知る事、そしてその徳を発揮して生きる事だ

とアリストテレスは主張しました。そしてこのように続けます。

この目的を達成するため、人間はポリスを作った。だから、人間がポリスを作ったのは必然的なことだ

ここでいうポリスとは「都市国家」の事です。当時の古代ギリシアでは『ギリシア』という巨大な国があったのではなく、各地方の共同体が一つの国として点在しているような状態でした。現在の日本でいうと、「東京国」、「名古屋国」、と言った具合です。もしくは、ポリスというのは江戸時代の『藩』と言った方が近いかも知れません。ちなみにアリストテレスが住んでいたアテナイは元々ギリシアのリーダー的ポリスで、極端なことを言うと「徳川幕府」にあたる立ち位置だったのですが、戦争に負けたり内政が腐敗したりしてその地位がドンドン脅かされ、アリストテレスの時代にはかなりグダグダになっていました。

さて、アリストテレスが言ったことはどういうことなのかというと、

人間という動物は、はじめは家族という一単位で暮らしていました。しかし、それだと猛獣に襲われたり、災害に巻き込まれたりしたら簡単に全滅してしまいます。そこで今度はその家族同士が集まって村を作りました。すると、猛獣や災害を防ぐための手段を村の中の誰かが思いつき、それを協力して実行することでそれらの脅威から身を守ることが出来るようになりました。

しかし、今度は村同士で争ったりして多くの犠牲を出す様になってしまいました。そこで今度は村の代表同士がよく話し合い、様々な約束事を決めることで協力し合う共同体を作り出しました。するとそれ以外の村が攻め込んできても協力して撃退することが出来たため、より生存率が上がりました。

また、人口が増えるに従って、変わったことを思いつく人間も増え始め、共同体の中で出来る事は広がっていきました。以前は変わったことを思いつく人がいても、その人の他の力が弱かったりしたらそれを実現する前に殺されてしまっていたんですね。

人間は共同体を築く事によって、安全にそれぞれの人間の長所を発揮する環境を手に入れました。そしてその共同体が協力するようになった結果、最終的に出来たものがポリスだとアリストテレスは主張しています。そして、このように続けます。

人間が幸福に生きる為には、ポリスに参加しなければならない

自分の徳を知る事、その徳を実践することボッチでは出来ません。様々な人を見て、自分と照らし合わせていく過程において、自分の徳を知る事が出来ます。また、自分がどんな人間でどんなことが強みなのか理解できたとしても、その徳を発揮するにはやはり人が協力して暮らしている社会が不可欠です。さらにその長所を伸ばすことも、やはり競い合う誰かがいないと出来ない事です。

さて、今回の一つ目の名言です。

アリストテレス「人間は自然本性的にポリス的動物である」

自分が何が出来るのかを知りたい、自分の長所を発揮したい本性的に思っている人間がポリスを形成したことは、それもまた人間の本性に基づいた結果なのだ、とアリストテレスは主張したわけですね。

2.「観念」を理解できる人間

しかし、みなさんこんな事を思いませんでしたか?

「えー、じゃあ社会参加しようとしないボッチな人間は幸福な人生は送れないの?」

たしかにこのようにも解釈できてしまうと思います。

アリストテレスは前回、このようにも言っていました。

「人間って、みんな知りたがりだよな~」

アリストテレスは、特に自分について知りたがるといいましたが、なにも人間が知りたがることは自分の事だけではありません。たとえば、

「人間って、死んだらどうなるんだろ?」、「この世界は何で出来てるんだろう?」、「神様とか幽霊って、ホントにいるのかな?」、など、様々な事を知りたがります。

前回、人の頭の中で考え出された抽象的な概念のことを、「観念」と呼びました。そして、この観念は他の動物はほぼ理解できません。人間には観念を扱える”強み”があるわけです。

先ほど述べた疑問について考えるような学問、則ち「観念」に基づいて「観念」を研究するような学問を、『形而上学』と言います。

目で見たり肌で感じたり出来る(「形」のある)自然についての学問である「自然学」よりも”上に位置するべき”学問、という意味です。

3.形而上学的な感覚こそ、幸福への手段

「自分はどういったことが得意なのか」という疑問は、社会に参加して様々な人と接していけば自ずと見つける事ができると思いますが、「では、自分の長所を活かしてどういったことをすれば自分は幸せになれるか」という疑問は、社会に参加しているだけでは答えを出せません。この最後の最後で必要になってくるのが、「形而上学的な感覚」なのです。

では、この形而上学的な感覚とは何なのかというと、ソクラテスがこう言っています。

ソクラテス「俺は知らないモンは知らないと思ってるけど、オマエラは知らないのに知ってると思い込んでるだけだよな」

わかりやすく言ってしまえばこういうことです。自分が理解していることは、本当は間違っているのではないか。この「不知の自覚」こそが形而上学の本質や真髄というべきものであり、「本当に自分はこの事について分かっているのか」常に疑いながら接する姿勢こそが形而上学的な感覚なわけです。

では、今回の二つ目の名言です。

アリストテレス「神の領域であり哲学者の仕事である『観想』こそが、それ自体を目的とする完全な幸福なのである。」

観想(テオーリア)とは、学問や理論によって物事の本質を追及する知的な生活を意味します。学問や理論に対する自分の理解疑い、その本質を捉えようとするのが観想活動なんですね。

さらにアリストテレスはその著書の中で、社会の中で徳を発揮するのは、観想に至るための手段だ、とも主張しています。その徳の本質を直観するには、社会でその徳を実践する必要がある、と言うことですね。

ちなみに、観想という言葉は元々仏教の浄土宗の言葉で、心を静かに集中して阿弥陀仏や浄土を念じ続ける修行の事を指します。この修行自身の理性を頼りに真理に到達しようとする姿勢非常に似ていたので、明治時代の人が「テオーリア」を「観想」と訳したんですね。

 

4.『不知の自覚』に至る努力を

形而上学的な感覚を身につけ、観想活動に幸福を見いだせるようになるためには、哲学や宗教の勉強をある程度積み重ねる必要があります。でなければ、「徳を実践すること」だけが目的になってしまい、その人は自分の魂に配慮出来ていない事になるからです。

その点で言えば、普段ボッチな人というのは自分と向き合える落ち着いた時間社会で慌ただしく働いている人よりも長いため、その答えを出しやすい環境にあったりします。とはいえ、アリストテレスが言ったように、最終的な観想的生活の為には社会の中で徳を発揮した経験不可欠な要素ではあります。

ただ、今の時代SNSなどを上手く利用して自分の長所を打ち出していけば、人と実際に接することが苦手な陰キャな人でも人と接しながら徳を発揮する事は出来そうなので、そういったことを生かせれば良い感じかも知れません。

そして、その一人でいるときに取り組んでいる趣味などに、哲学を反映させていくことが、最終的に自分自身をよりハッキリ自覚させる事に繋がると思います。

 

🐂「いかがでしたでしょうか?これで概要を終わります。この後で、これらの掘り下げをやりますので、よかったらこちらも見てみて下さい」

コメント

タイトルとURLをコピーしました